---------------- 故意ではなかった ---------------- 「おにいちゃん?」  半分あけたドアの隙間から呼びかける。少し間を空けるが返事はない。 悪いかな、と思いつつも静かに中に入る。  黒崎朝美は彼女の母親黒崎小夜子を探していた。納期の近い仕事を放り出して 逃亡した母を連れ戻さなければならない。いたとしても大した仕事の出来る人では なかったが、少なくとも娘は母親を必要だと考えていた。  中庭にはいなかった。台所や風呂場を確認したけれど、そこにもいない。 残るは他の住人の部屋だけだった。初めに訪ねたのは白鳥隆士の部屋だ。 彼は女顔の優男で、性格的にお人好しなところがあるため、小夜子が押し入ってきても 無下に追い出したりは出来ないだろう。可能性としては一番高そうに思えた。 「あ、おにいちゃん、寝てる……」  部屋の真ん中よりやや端、大の字になって白鳥は眠っていた。休日とはいえ昼間から 彼が眠っているのにはいろいろと事情がある。が、割愛しよう。  すうすうと可愛らしい寝息をたてている。朝美はその無防備な表情を見てくすりと 笑った。(あ、でもかわいいなんて思ったら失礼だよね……一応男の人だし)  男の人――。そうだ、あまり意識はしていなかったが彼はれっきとした男性。 急に居心地の悪さのようなものを感じ始めた。そもそも朝美は無断で人の部屋に 入っていた。(お母さんもいないみたいだし、早くおいとましなくちゃ。 起こしたりしたら悪いし)  去り際に白鳥の顔を見る。なぜか心臓が早鐘のように打ち鳴っていた。頬も熱い。 何より、先ほどからずっとお腹の下辺りに変な感覚が蠢いている。 (なんだろう、この感じ。お腹の辺りからこめかみにかけて何か抜けていくような) 朝美はそろりと白鳥の体の隣に近寄り、両手足をついて顔を覗き込むようにした。 息づかいがすぐそこにある。すべすべとしてやわらかそうな肌。朝美はそっとそれに 触れてみた。温かい。触れる寸前の高揚感、そして触れた後の恍惚感と安心感。  突然、うん……と白鳥が呟いた。朝美は驚いて手を離す。いままで感じたことの なかった感覚、感情が一度にあふれ出てきて彼女は困惑していた。  彼の唇から目が離せない。両足の感覚が鈍くなり、宙に浮いているようなおかしな 感覚を覚える。朝美はもう何がなんだか分からなかった。しかし体は本能に忠実に、 望むものを得ようとしていた。(欲しい――おにいちゃんが欲しい)  少しずつ自身の顔を白鳥の顔へ近づけていく。彼女の梢に悪いなどとは露にも思って いなかった。それどころか存在すら忘れていた。彼女が感じているのは目の前の男 ただ一人だけだった。朝美は「女」になっていた。  自身の柔らかなそれと白鳥の唇とをそっと触れさせる。その時鼻腔を掠めたのは 柑橘系の甘酸っぱい香りだった。心理の深い所で嫉妬が芽生えた。  独占したい。彼を私のものにしてしまいたい。なんどもなんども小鳥がついばむ様に キスを落とす。唇だけでは満足できず、頬や顎にも吸い付いた。 「梢、ちゃん……?」  白鳥がまた寝言を発する。口の端が少しだけほぐれて、微笑んでいるのが分かる。 その言葉に、朝美はふっと我に返った。(梢お姉ちゃん……私、なんてことを)  酔いが醒めた後は早かった。朝美は両手で顔を覆うともつれる足でバランスを 失いそうになりながらも、白鳥の部屋から逃げ出した。  ――恋ではなかった。とりあえず、今はそう思ってる。