-------- きずなA -------- 11月。 紅葉の赤と銀杏の黄が殺風景な公園に彩りを添え、 普段は人気のあまり無い郊外の公園も、幻想的ですらある、この深秋の光景に魅せられた人々で賑わう。 その賑わいから少し外れた所、 木々の生い茂った―――と言っても葉は粗方落ち切っているが―――雑木林の中に、地道に現実と戦う黒崎親子の姿はあった。 「あ!見つけ!」 娘―――黒崎朝美は、およそ「戦う」というイメージからは程遠い、底抜けに明るい声で言った。 彼女の手には段ボール箱。 説明するまでもないが、彼女は極貧の真っ只中に居る。 節制を絵に描いたような性格の彼女にとって、無駄に出来るモノは何一つ無い。 故に、彼女にとって自然の―――殊に季節の―――産物は正に天の恵みであり、 春は野草摘み、 夏は潮干狩り、 冬はかき氷(?)で一年を乗り切ってきた。 では、秋は何かと言うと――― 「あっ!また見つけ!」 この、銀杏・団栗拾いなのである。 「お母さーん!こっちにも沢山あるよー!」 朝美は無邪気な声で、木々の向こうで踞っている女性に向かって叫ぶ。 「お母さん」と呼ばれた女性―――黒崎沙夜子は顔を上げると、朝美に向かって、返事の代わりに無言で笑いかけた。 優しくも儚く、憂いを帯びたその笑顔は、何処か聖母を彷彿とさえさせる。 ―――これで彼女の段ボールの中が空でなければ、朝美も文句は言わないのだろうが。 繰り返すが、朝美は極貧の真っ只中に居る。 彼女が今やっている団栗拾いは、幼子が戯れに興ずる様なモノとは格が違う。 ――彼女のそれには、生活が懸かっている。 自分の生活が懸かっているとなれば、自然と集中の度合いは増してくる。 否、集中せざるを得なくなるのである。 (…あ、こっちに沢山ある) 更に、日々の内職で培った集中力が、良くも悪くもそれに拍車を掛け、 (…あれ、こんな所にも…) とどめに、彼女は集中すると周りが見えなくなるタイプの人間であった。 (…そう言えばお母さん、大丈夫かなぁ?) これだけの諸条件が揃えば、偶然が必然に名を変えるのには充分。 ―――いや、充分過ぎた。 「お母さーん…………あれ?」 よって―――彼女が我を、周りを、母すらも見失って道に迷ったとしても、 それは仕方の無い事だと言えるかも知れない。 とは言え、今の状況を「仕方が無い」と笑って妥協出来る様な余裕は、 生憎ながらその時の朝美には無かった。 「お母…さん…?」 現状がまだ良く飲み込めていない朝美は、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。 「お母さん……お母さんっ!」 状況が解ってくると、今度は不安が音も無く押し寄せて来る。 辺りを見回しても、目に映るのは見渡す限りの銀杏の木、団栗の木、楓の木、 そして、それらの落葉の海。 (ここって…こんなに広かったっけ…?) 辺りは不気味な程静かで、耳に入って来るのは自分が落ち葉を踏む音と、時偶響く北風の音だけ。 「…………」 段ボールを抱えたまま、歩き出す。 少し歩けば、出口も見付かるだろう―――そう、朝美は思っていた。 …だが、現実は悉く残酷である。 「……どうして」 あれから30分。 朝美は思わず、小さく漏らしていた。 歩けど歩けど、見えて来るのは無秩序に立ち並ぶ枯木ばかりで、 出口など一向に見える気配が無い。 ――これは……もしかして――― 後ろを振り返る。 そこにもやはり、正面の景色をトレースしたような雑木林が無限に広がっているだけ。 ―――あれ? 私…何処から歩いて来たんだっけ? その事に気が付いてしまった瞬間、 不安は、恐怖へと形を変えた。 『迷った』? そう意識した瞬間から―――喩え意識しない「フリ」をしていても――― 恐怖という「闇」は、彼女の知性を、理性を、尽く塗り潰していく。 「―――――っ!」 彼女は走り出した。 今更そんな事をしても無駄だという事は疾くに解っていたが、 「はぁ、はっ、はぁ…ッ!」 それでも彼女は、ひたすら走り続けた。 「はっ、はぁ…っは、はぁ、はぁ―――!」 恰も、見えない何かから逃げるように――― 「はぁ、は…―――あっ!」 辛うじて彼女の――雀の涙程の――希望を繋ぎ止めていた姿無き相手とのチェイスは、 落葉の隙間から顔を覗かせていた木の根によって呆気無く幕を閉じた。 朝美の小柄な身体が一瞬だけ宙に浮いたかと思うと、次の瞬間、 どさっ、という音と共に、鮮やかに色付いた落ち葉がふわりと舞い上がった。 「………っう…ぅうっ…」 不意に涙が零れ、声が洩れた。 情けない。 中一にもなって、母親と逸れて道に迷ったくらいで泣くなんて。 ―――朝美は内心、そう思った。 知らなかったのだ。 人が、こんなに孤独に脆いなんて。 一人ぼっちである事が、こんなに心細い事だなんて――― 「……………」 最早止めど無く流れ続ける涙でぼやける極彩色の視界の中に、ふと母の黒髪が浮かんだ。 ―――お母さん。私のお母さん。 会いたい。 甘えたい。 ぎゅって、抱きしめて貰いたい――― ――――おか、あ、さん―――。 「…君、こんな所で寝てると風邪引くよ?」 ………………え? パンク寸前であった朝美の思考回路は、 恐らく自分に掛けられたのであろう、何の前触れも脈絡も、現実味すら無いその声によってストップを強いられた。 「……………」 何十秒か何分か―――暫くして漸くモノを考えられるだけの余裕が戻ると、 朝美は恐る恐る顔を上げて、声がした方を見遣った。 ―――其処に居たのは、一人の青年だった。 見覚えの無い、しかし何処か懐かしい感じのする青年――― 「…………………???」 ―――これは……夢? 斯くして、 紅葉舞う深秋の林の中、自分の頬を思い切り抓る少女と、それを見て首を傾げる青年、 ―――という、何とも不可思議な画が此処に出来上がる事となった。 不思議な青年だった。 母子のお約束の定番である「知らない人についていっちゃ駄目よ」は生活力ゼロの沙夜子が母親である黒崎家に於いても例外ではなく、 青年に声を掛けられた時に沙夜子の声が頭を過ぎりはした(中学生にもなってそんな事を思い出すのもどうかと思うが)のだが――― 何と言うか―――その青年は、信用出来る。そんな気がした。 根拠なんてモノは無い。 というか、言葉では上手く説明出来ない。 理屈ではなく感情の問題だ。 心で感じる、とはこういう事を言うのだろう。 朝美が簡単に事情を話すと、青年は 「うーん、そっか…」 と口元に手を当てて暫く考え込んだ後、 「じゃ、ついて来て。出口まで案内してあげる」 と言って、朝美に背中を向けて歩き始めた。 ―――今思えば、いや普通に考えれば、コレは明らかに怪しい。 「知らない人についていっちゃ駄目よ」のあまりに典型的な例である。 だが―――朝美には、青年が自分に何か為出かすような、そんな人間には思えなかった。 根拠は勿論無い。 いや、そもそも―――と朝美は思う。 人を信頼するのに、そもそも根拠や理由なんて必要無い。 何より、今の自分には他に頼れる人が居ない――― 「………」 朝美は制服に付いた落ち葉を払うと、既に遠くなりつつある青年の背中を小走りで追い掛けて行った。 青年は寡黙だった。 林の中を歩いている間、青年との会話は皆無に等しかった。 ―――あったとすれば、一回だけ。 それは、二人が歩き出して数分が経った頃の事――― 「―――君のお母さんって、どんな人?」 何の前触れも無く、 青年は前を向いたまま訊ねた。 「―――え…?……どんな人って………」 その質問が自分に向けられたモノであるという事が一瞬解らずに戸惑い、 突然の、しかも何の脈絡も無いその質問内容に再び戸惑い。 半ば混乱しながらも、朝美は少しずつ言葉を紡ぐ。 「…私のお母さんはね、えっと…… ……優しい人…なんだ。私にも、他の皆にも。 暗いし無口だし…内職もあまり出来ないけど―――」 一瞬、言葉を切る。 ―――何だろう、この感覚。 胸が、締め付けられるように苦しい。 「―――でも私、一緒に居ると楽しいんだ。一緒にゴハン食べて、一緒に内職して、一緒にお話して―――そうやって一緒に居るだけで私、とっても楽しいなって思う。 それに…それにね、一緒に居ると安心するの!頭撫でてくれたりすると胸がほわーっとなって、それで、それで―――!」 胸が苦しい。 意識しなくても、言葉が勝手に出てしまう。 何を必死になっているのか、自分でも理解らなかった。 唯一つ、理解っていた事は。 今、お母さんがとても恋しい事――― 「私…私ね、お母さんと居られて幸せだし、お母さんが一番好きだよ!お母さんの笑った顔が好き!私の名前を呼んでくれるお母さんの声が好き!優しいお母さんが大好きなの! 血は繋がってないけれど、でもね、でも―――あれ?何だろ、コレ…あはは、何で泣いてるんだろ私?血なんて繋がってなくてもお母さんはお母さんなのに、泣くことなんて何も無いのに、私は幸せなのに―――」 ―――ぽん、と。 頭に手を置かれて、朝美は顔を上げた。 「…そうか」 青年の声と同時に、 景色が、ぐわん、と歪んだような気がした。 青年の顔は、何処か淋しげな―――悲しげな微笑を湛えていた。 それは同情や憐憫といった類の感情ではなく。 例えば…そう、詫罪のような――― 「……え?」 次の瞬間。 太陽と見紛う程の強い白光が、木々を、落葉を、空を、歪んだ侭の景色全てを、 一瞬にして、飲み込むように掻き消した。 ペンキをぶち撒けたような真っ白な背景。 それは程無くして、青年との同化を始めた。 ゆっくりと、しかし確実に、青年の身体は光の中に溶け込んでいく――― ―――ごめんな。 青年の姿が完全に掻き消える瞬間、 朝美はそんな声を聞いたような気がした。 ―――気が付くと、辺りの景色は何事も無かったかのように元に戻っていた。 水彩画の如き空に散り散りの雲。 寒身に添い合う無葉の木々の集落。 葉と葉が織り成す天然の万華鏡。 唯先刻までと異なるのは、沈みかけた陽の光が、それらに真橙の彩り、及び光陰のコントラストを添えている事――― 青年の姿は、跡形も無くなっていた。 まるで―――本当に、あの光の中に掻き消えてしまったかのように。 「……夢…?」 自問するように呟く。 それに、彼女の心は「ノー」と答えた。 醒めてから急激に薄れてゆくのが、夢の記憶というモノだ。 だけど―――こうして目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。 青年の声。 青年の背中。 今も髪に残る、青年の手の温もり。 温かい手。 優しい手。 懐かしい、てのひら――― 「―――朝美?」 聞き慣れた声に、朝美はハッと我に返った。 振り向いた先に在ったのは―――紛れも無い、黒崎沙夜子の姿。 「…どうしたの?ぼーっとして……」 と首を傾げる沙夜子の声も、朝美の耳には入っていなかった。 ―――出口まで、案内してあげる。 青年の声が、朝美の脳裏に響く。 そっか。 ちゃんと、案内してくれたんだね――― 「朝美?…大丈夫?」 「………え?…あっ、う、うん!」 何時の間にか目の前に居た沙夜子の再三の声で、朝美は漸く完全に我に返った。 陽も半分程が沈みかけている。 「………」 沙夜子が無言で手を差し出すと、朝美も無言でそれを握る。 顔を上げると、目と目が合った。 「…帰ろう」 そう言って、沙夜子は微笑んだ。 優しくも儚く、憂いを帯びたその笑顔は、何処か――― 「…うん!」 朝美もまた、繋いだ手の温かさを感じながら、満面の笑顔で言葉を返した。 ―――もう、涙が流れる事は無かった。 朱の空に藍色が混ざり、木々の間から射す薄日も徐々に弱くなっていく。 「…………」 公園の出口。 朝美は足を止め、雑木林の方を振り返った。 ―――あの出来事は、夢だとも、悪い体験だとも思っていない。 唯ひとつ、残念な事と言えば――― 「…お礼、言い忘れちゃったなぁ」 朝美はぼそりと呟く。 「?」 「…ううん、なんでもない」 ―――今日の事は、お母さんには話さないつもりだ。 だって―――あんな事を泣きながら言ったなんて事、とてもじゃないけど話せたモノじゃない。 それに―――と朝美は思う。 ……「親子の秘密」っていうのも、案外悪くないしね。 ―――ね、そう思うでしょ?お父さん。 あとがき: というワケで「きずなA」完結です 書いてて気が付いたんですが 朝美は一応父親と面識があるんですよね… ……そんな不具合もありますが、何とか書き上げました 文体の統一と言うか、口調の統一をするのは難しい、と改めて感じましたね 沙夜子さんが難しいのなんの 取り敢えずは読んで頂ければ幸いです では