------- 水蜜桃 -------  日が沈みかける間もない逢魔が時の薄暗さに、  闇に沈んだ室内で妙にぼんや りと浮かぶ窓。  就寝するには早すぎる時間。外の音も、まだ遠くない。  なのに、床には寝具が敷かれていた。  掛け布団が、一定のリズムで動いている。  揺らしているのは、僕──だけじゃない。  僕に覆い被さられて、脳を痺れさせるような甘い体臭の、柔らかく、艶めかしいからだ──  ──桃乃さん──  僕らはすべての衣服を周りに脱ぎ散らかし、薄闇の中で息を弾ませ、  熱い喘ぎ声を密やかに漏らしながら、ひとつに重なっていた。 「あっ……んっ……ん……」  桃乃さんのアソコは、蕩(とろ)けるほど熱く僕のモノを搾り上げ、  往来するたびにヌチョ……ヌチョ……といやらしい音を立て、  僕をピンク色の世界に包み込んでくれる。  それに負けじと頑張る僕の腰の動きに合わせて、  桃乃さんのふっくらとした 唇から絶え間なく漏れる、押し殺した甘く切ない嬌声  ──細く密やかな吐息はしかし、僕の聴覚を完全に支配し、頭の中で狂おしく響く。  僕はますますどうにかなってしまう。  僕らの吐息しか聞こえないシンとした部屋の中で、点けっぱなしのテレビの  真っ黒な画面が、聞き取れないぐらいの幽かさで唸っていた。  夢を見ているような意識の中、僕はかろうじて考える。 (なんで……こうなっちゃったんだろう………………?)  なんで僕と桃乃さんがこうして……こんなコトをしているんだろう……。  だけど、僕の目の前ではちきれんばかりの胸が揺れ、  色っぽく喘ぐ桃乃さんの顔を見ていると、そんな疑問も理性とともに簡単に吹っ飛び、  何もかも忘れて、この途方もない快感に囚われてしまうのだ。 「桃乃さん……!」 「あぁ、あぁっ、あうぅぅん……?」  僕は指が吸い付くような桃乃さんの豊かな膨らみを揉みしだき、さらに腰を振り立てる。  ヌルヌルで、キュウキュウで、キュンキュンで、フニュフニュで、もう、もう………………!! 「ハァ、ハァ……ま、また……中で出してもいいですか…………!?」  桃乃さんは陶然と瞑っていた目を半開きに、  熱に冒されたような視線でコクコクと頷いてくれた。  桃乃さんもとってもエッチなイク寸前の表情(かお)をしている。  激しい運動で眼鏡がずり落ちそうなほど下がってるのが、とっても可愛らしかった。 「桃乃さぁん……っ!」  僕は下半身に意識を集中し、頭の中が快感の灼熱で焼け焦げそうな  圧倒的な射精感の中、強く密着し、ビクビクと腰を震わせた。 (あああああ!!)  ビュッ! ビュッ! ビュルルッ!  桃乃さんの蕩(とろ)けそうなほど心地よいアソコの中でまた、  僕の体液が遠慮なく放たれてゆく。  ゴムも付けずに捲かれる赤ちゃんの種……  でも、桃乃さんは大丈夫な日だからって、中に出していいって……。  桃乃さんの言葉を脳裏に描きながら、そのまま圧し込むようにくっついていると、  桃乃さんの中もヒクヒクとひきつり始め、次いでからキュウウッと狭まり、  「ンンンン……ッ?」と、中の痙攣が全身に広がるように、脚もピクピク弾むように震える。  桃乃さんの惚けたような表情から、彼女もイッてるのだと、本能的に解った。  ……お互いこれで何度目の絶頂か、もうわからない。  でも、二人一緒にイケたのは嬉しかった。  ──射精が果てると、あの脱力感が襲ってきた。  罪悪感とともに……。  靄がかかったような重い意識の中で、  何とか踏ん張って桃乃さんに倒れかかるのを堪えながら、僕は梢ちゃんに謝っていた。 (ごめん────ごめん、梢ちゃん……………………)  桃乃さんがあまりにも気持ちよすぎて、たまらなくて、止まらないんだ……。  今も……絶頂を迎えた桃乃さんのアソコが……力が抜けるとゆるゆると弛緩したけど、  それでも抜く気が起こらないほど、とってもぬるぬるしていてあたたかいんだ……。  桃乃さんがうっとりとまぶたを開いた。  頬を紅潮させ目はトロンとし、時折甘ったるい小声を喉から漏らす。  爛れきったような、すごくイヤらしい貌(かお)……  ……でも、僕だって今、同じような表情をしてるんだろうな……。  下半身がもう全然別の生き物みたいで、まるで夢の世界。 「はぁ……はぁ……ん……んん……?」中空を見つめていた  潤みきった瞳が降りてきて僕を捉え、微笑みを浮かべる。 「ンフフ……? 私の中で、あったかいの、感じるよ……。  白鳥クンの精液……さっきから、ぜんぶ私の中に出してるんだよね…………」 「う、うん……桃乃さんが……いいって言うから……」  それに、桃乃さんの中があんまりにも気持ちいいし……  桃乃さんも気持ちよさそうでとってもいやらしくて、我慢できないから……。  だけど、そんな弁明めいた言葉は必要なかったみたいだった。  桃乃さんは全然厭そうじゃなかった。むしろ悦んでるように微笑みを湛えたまま、  なだらかな下腹部に手を当てると、 「白鳥クンのあったかさが私の中にあるみたいで……不安や怖さが無くなって  ……すごくホッとして……とっても嬉しいの……」 「桃乃さん……」  ああ……!  僕は回数も忘れたぐらいだというのに、  また、身体の奥から熱い欲望がふつふつと湧いてくるのがわかった。  疲れているはずなのに、疲れを感じない。  何回だって出せそうだ……出すたびに馬鹿になっていくような気がするのだけど、それでも………… 「桃乃さん……このまま続けてもいい……?」 「え……!?」  さすがに桃乃さんもさっきから息を弾ませて汗びっしょりで、  僕の言葉にびっくりしたようだったけど、すぐに悪戯っぽい、  でもどこか色妖しさが漂う陶然とした笑みに変わった。 「いいよ……もっといっぱいして……白鳥クンが満足するまで……  今夜は何もかも忘れるぐらい、いくらでも私の中で出していいから…………」  そんな言葉を聞いては、正気でいられるはずがなかった。 「も、桃乃さんッ!」  と、僕はケダモノのように桃乃さんの胸にむしゃぶりついた。 「あぁン?」  桃乃さんの歓喜が悲鳴のように上がる。  夜が更けても、僕らの布団が寝静まることはなかった。  時は日中に遡る。  朝から陽気な日差しの気持いい天気が広がっていた。  ……だというのに、ごく平凡な専門学校生な上にバイトも恋人もない僕は、  日曜日に出かける用事もあるはずもなく、昼食を取った後は部屋に籠もり、  週明けに提出しなければならない課題に取り組んでいた。  こんな天気の良い日に外にも出ず、部屋の中で黙々とペンを動かすのに  虚しい気持ちがないと言えば嘘になるけど、現実を見つめることも大切だ。 「今の世の中、なにかと誘惑が多いけど、だからこそしっかりと本分に努めなきゃいけないよね」  危ない独り言を呟きながらスケッチブックに向かう。  幸い課題は枚数も少なく、昨日のうちに後は色を塗って仕上げるところまで進めていたので、  日が傾く前には、余裕をもってもうすぐ終わらせられるところまで出来上がった。  一区切りついたなと気を緩めると尿意を催したので、休息ついでにトイレに立った。  用を済ませ、中庭の池で釣り糸を垂らしている灰原さんを  何気なく視界の端に捉えながら廊下を歩いていて、ふと気付いた。  鳴滝荘を見回した僕は、 「今日はなんだか閑かだな……」  と、心に浮かんだ感想をそのままぽつりと言った。  普段はなんだかんだで賑やかな場所である。僕もそれによく巻き込まれる。  だから、この無人のような静けさはちょっと珍しく感じられた。 (そういえば、梢ちゃんと珠実ちゃんは昼から二人で買い物に行くって言ってたっけ……  朝美ちゃんと沙夜子さんは内職……かな……?) 「桃乃さんと灰原さんは特に予定とかは言ってなかったな……あ」  僕は空の様子に気付いて見上げた。  朝はあれだけよく晴れていた青空が、いつの間にか、どんよりとした厚い雲で覆われていたのである。 「こりゃ……来るな」 「え?」  意外に近くから声がしたので、びっくりして中庭を見る。  釣り道具を片付けつつ、ジョニーがこちらに向いた。 「今日は降水確率なんて出てなかったのに、マッタクいい加減な天気予報だな」  そういえば灰原さんいた。 「えっ、そうなんですか」 「どっか行く用でもあったのかい?」 「いえ、そういうわけじゃないですけど……  せっかくあれだけのいい天気だったから、ちょっと残念だなって」 「そうだよな。お」  ジョニーが腕を差し出して頭上を見る。  ぽつり、ぽつりと降ってきたかと思うと、  それほど時間がかからないうちにさーっとまとまった雨になっていった。 「ちっ、季節の変わり目は天気がコロコロ変わっていけねーぜ」  そう言いながら灰原さんは自室に引っ込んでいった。  僕はしばらくの間その場に佇んで、天から落ちてくる雨粒と薄暗い雲を眺めていた。  その時、 「うひゃー!」  と、騒々しい駆け足とともに向こう側の廊下に人影が現れた。  ノースリーブにショートパンツというラフな格好の桃乃さんだった。  玄関の方からということは、今外から帰って来たところだろうか。かなり濡れていた。  そのままこちらに駆けてきて、僕に気付いた。 「あ、白鳥クン」 「桃乃さん、どうしたんですか」 「あはは、見ての通りよ」  桃乃さんは腕を広げて我が身を示した。ずぶ濡れというほどではなかったが、  服が身体に張り付き、髪からは雫がポタポタとしたたっていた。 「水もしたたるイイ女ってね。ちょっとタオル取ってくるわ!」  そう言うと僕の脇を通って洗面所に入っていき、すぐに頭にバスタオルを被って戻ってきた。  髪を拭きながらケラケラと笑う。 「いや〜参っちゃったよ。外に出てたらいきなり降ってきてさー。傘無かったから結構濡れちゃった」 「はははは」  僕も思わず笑ってしまった。桃乃さんはいつもテンション高くて、  濡れても湿っぽさが全然ないなあ、と思ったからだ。 「んん?」 「え」  と反応する前に、僕は首に腕を回され、ヘッドロックを決められていた。 「うわわわ!?」  バスタオルが落ちるのも気にせず、突然の出来事に慌てふためく僕を桃乃さんはガッチリと押さえ、 「なんか今、考えたでしょ。私のコト」  と、耳元で囁いた。 「い、いや別に何も! あ、あのちょっとその、も、桃乃さんなにを、わああギブギブ!?」  ギュウギュウ。  まだだいぶ濡れている桃乃さんの身体は冷たくて、  けどそれ以上にあったかいからだ、そして胸が、胸が、ムニュッと……うわあああ!  暴れ出す僕を、さらに締め付けて押さえつける桃乃さん。楽しそうだ。  桃乃さんはかなりの美人である。日がな一日ごろごろし、  あれだけお酒を暴飲しているというのに、全然崩れない抜群のスタイルの持ち主──  僕だって健全な男子として、それぐらいの観察結果は出している。  というか、彼女は鳴滝荘の中ではいつもこんな格好だし、  酔い潰れたのを抱えて運んだ時もあるし、海水浴でも十分に視覚に収めたし、  しょっちゅうこんなスキンシップを仕掛けて来られては理解しない方がおかしいし……!! 「水に濡れた服が透けて、下のが見えちゃった? 見えちゃった? 正直に白状しなさい。うりうり?」  耳にくっつくほど近くに感じる唇。もっと押し付けられる胸。さらに腰まで。  ボ、ボリューム感がっ……桃乃さんの大人びた身体がっ……! そして、確かに……スケテイル……!!  なぜか艶めいた吐息が、耳たぶに生っぽくかかる。 「ヨ・ク・ジョ・ウ……した?」 「あわわわわ!! や、や、止めて下さいよー!」  ジタバタともがきながら、なんとか逃れられそうな言葉を僕は必死に探した。 「だ、だいたい桃乃さん、そんな格好で外を出歩いてたんですか!?」 「えっ?」  桃乃さんの腕が緩んだ、今だ! 「あ!」  僕は滑るように抜け出し、二三歩離れた所で体勢を立て直し、ゼイゼイと息 を整えながら身構えた。 「……ちぇー、逃げられちゃったか。アハハ♪」  桃乃さんは悪戯が成功する前にバレた子どものようなばつの悪い笑みを浮かべ、足下のバスタオルを拾った。 「ぜぇ、ぜぇ……」  今の言葉で動揺した……のかな? ともかく、助かって良かった……。  桃乃さんは髪を拭くのを再開しながら答えた。 「外っていってもただ玄関先に居ただけだから、別に着替える必要なかったワケよ」 「玄関先に?」 「……あ"」 「?」 「えっ!? いや、別に何でもないよ? ──アハ、アハハハハ……」  タオルに隠れて表情は分からなくなったけど、今の声は明らかにしまった、という感じだった。  変なの。なんでそんな場所で──あ。なるほど。 (そうか……桃乃さんなら、そこに居てもおかしくないよな)  だけど── 「桃乃さん、あの……」 「ん、なに?」  桃乃さんは髪を拭き終えて眼鏡のレンズを磨き始めていた。 「今日って……」 「今日が、どしたの?」  キョトンとしてる。  ……こういう場合、どう言えばいいんだろうか。 「ええと……ホラ、あの」再び上手い言葉を探す僕。 「えっと、そうそう! 雨降って来ちゃったけど、さっきまで良い天気でしたね!」 「そうよねー、私も日光浴がてら、ついウトウトしちゃった。まさか雨が降ってくるなんて思わなかったし」 「梢ちゃんと珠実ちゃん、傘持って行ったんですかね? 買い物に行きましたから、午前中から!」 「あーそういえば、そんな事言ってたような言ってなかったよう……な……」  桃乃さんの顔がハッとしたように変わった。 (気付いたみたいだ、よかった)  直接的に指摘するのは何か気が引けたので、誘導が無事成功して良かった。  そう胸を撫で下ろした時だった。 「そっか………………」  桃乃さんがそう呟いたかと思うと、手にあった眼鏡がするっと落ちた。  カトン、と木の廊下に当たる軽い音が、雨さんさめく中でやけに大きく響いて聞こえた。 「!?」 「あ……?」  僕と桃乃さんの目が同時に下を向くが、先に動いたのは僕だった。  すぐに拾って確認する。特にヒビなどは入っていない。 「よかった、割れてないみたいですよ」  そう言って手渡したが、 「ありがとう…………そっ……か………………」 と、桃乃さんは何だかぼんやりしていて、呟くように力無く言った。  胸がドキンと鳴る。 「そうだよね……今日は日曜日で…………何やってんだろ、私………………」  それは、何かが抜け落ちたように虚ろになり、しきりに泳ぐ桃乃さんの目だった。 「……え?」  普段底抜けに明るい桃乃さん。僕は表情豊かな彼女しか知らない。  なんでこんな顔をするのか、わからなかった。  郵便屋さんが来ない日だから? ……まさかそんな。  いつも通りの桃乃さんだったら、照れ隠しに笑うとか、  「うわちゃ! 私ってもしかしてバカ!? バカ!?」とか言って軽いノリの自己嫌悪をするとか、  そんな明るいリアクションを取る……はず。  そんな桃乃さんが、ショックで我を忘れたような動揺を見せている。  その落差に、僕は内心驚きを隠せなかった。 「桃乃……さん……?」 「……あ」  桃乃さんの眼に意思が戻ってきた。  僕に焦点が合わさる。  え──?  瞳が潤んで──え……泣く……!?  だけど瞳の揺らめきはすぐに掻き消え、ギュッと強張ったかと思うと、  取り繕ったような笑みが被さった。 「アハ、アハ、アハハハハ……ゴメン、今ちょっと私どうにかしてたみたいね。アハハハ」 「あ、いえ……僕の方こそすいません。何か余計な事言っちゃったみたいで……」 「……ううん、そんな事ないから……ありがとうね」  桃乃さんは僕に微笑みかけた。 「キミは何も悪くないよ。ゴメンね、心配かけちゃって。大丈夫だから」  ……なんか……無理して作ってるような感じがするのは、今の表情(かお)を見たせいかな……?  なんか……不自然だ。今の桃乃さんは、なんかよくわからないけど、とても不自然に見えた。  と──僕は気付いた。 「桃乃さん、服早く着替えないと」  桃乃さんも我が身を見下ろし、「あ」と気付いて苦笑いをする。 「どーりでやけに寒いと思った」 「いつまでもそのままだと風邪引いちゃいますよ」 「うう、着替え着替え……ついでにシャワーも浴びるか」  桃乃さんはすぐ近くのドアを開ける。僕たちはちょうど彼女の部屋の前で話してたのだ。  ドアをくぐる前に桃乃さんは、「そうだ」と何か思いついたように立ち止まり、僕に振り向いた。 「どう、ついでに一緒に入る?」 「ええっ!? は、入るわけないじゃないですか!」 「アハハハハ」  桃乃さんはいつもの明るいノリで笑った。 「私の濡れたカラダ見たくせにぃー?」 と、腰の辺りから胸までのラインをなぞるように手を這わせる。  なんかこう、それはひどくヒワイな感じに見えて、僕は真っ赤になって目を逸らしてしまった。 「そ、そういう問題じゃないと思います!」 「ん? 否定しないってコトは……見たの?」  ニヤニヤと意地悪そうな半眼。 「み、見てないです! それよりもいい加減、風邪引きますよ!?」 「ちぇー。付き合い悪いの」  口をアヒルのようにとがらせたが、 「って、冗談よ、冗談!」と、ケラケラ笑った。 「……ええ、モチロンわかってますよ…………」  ていうか、冗談じゃないとダメでしょう。 「そうだ白鳥クン、ビデオ観ない? 新作の映画レンタルしたんだ」 「え?」 「こんな雨降っちゃ、他にやることもないし。いつも一人で観るのもつまらなくてさ。どう?」 「え、ええ、まあ別にいいですけど……」  課題はまだ完成してなかったが、映画を観るぐらいなら全然問題ない。 「決まりね! じゃ、おフロの後ということでっ」  そして部屋に引っ込み、替えの服を持って洗面所に向かうと、 「しばらく待っててねぇん♪」 と、戸を閉める間際にウィンクを送ってきた。 「はーい……」  まったく……桃乃さんはちゃんと彼氏がいるというのに、なんで僕を誘惑するようなコトをやるんだろう。  ……そりゃ、僕をからかって楽しいからだよね。ハァ…………。  さっきの様子が目の錯覚かと思うほどの元通りっぷりに、一体なんなんだろうと、  僕は溜め息とともに小首を傾げるばかりだった。  空を見た。  雨はまだ止みそうになかった。  部屋に戻って課題を再開したが、他に気を取られながら作業するわけにもいかず、  結局はスケッチブックの上でクレヨンを弄びながらボーっとすることになった。 (そう言えば、桃乃さんの部屋に招かれるなんて初めてじゃないかな?)  きちんとしたかたちで入室するのも、これまでにはなかった。  何となく落ち着かない。 「さっきのは何だったんだろう……」  すぐに消えたけど、あれた確かに今までまったく見たことのない、  桃乃さんの失意の表情だった。  なんとなく、あれは本気──というか、桃乃さんの本当の感情……という気もしないでもなかった。  でも、平日と勘違いして郵便待ちをしたぐらいで、あんな狼狽え方をするだろうか。  そんな事を考えていると、ドアが叩かれる音がした。 「白鳥ク〜ン」 「はーい」  開けると、オペラピンクのタンクトップと黒の短パンに着替えた、ニコニコ顔の桃乃さんが立っていた。 「やほ、お待ちどうさま☆」  と、ヒラヒラと手を振る。 (なんだか大人に見えるな……って、桃乃さんは大人か……)  桃乃さんはそんな僕の視線を知ってか知らずか、いつも以上の上機嫌さでやや上目遣いに、 「さ、私の部屋に行こっ!」  と言って僕の腕をぐいっと引っ張った。  ふわあああ、微笑みながらまた胸を押し付けないで下さい……!  桃乃さんが僕に見せたDVDケースの表には『カニサッカー』とあった。  ちょっとパースの効いたコミカルな劇画風の脚の長い赤いカニの足下に  サッカーボールというパッケージデザインで、  タイトルの『ニ』の部分が蟹の脚が二本並んでいて、ちょっと美味しそうだった。  裏返すと、 「前代未聞! なんとカニがサッカー!?」 「カニ、クラブに乱入! カニの活躍にあの有名選手達もアワてふためき!?」 「今ここにカニの神髄が開かれる! 衝撃、必殺泡ストーム!」 「壮大なる生命の神秘と進化の謎に迫る感動の問題作!」 などというわけのわからない煽り文の下に、カニの画が貼ってあった。  どう見ても、海洋写真から持ってきた実物のカニだった。  たいへん立派で美味しそう。 「………………」  なんだろう。  このそこはかとなく漂ってくるダメっぽそうな匂いは……。 「それ、けっこうスゴイって話題になってるのよ。早速観てみようか!?」 「は……はい……」  僕は今さら逃げられようもなく、桃乃さんが  こちらにお尻を向けながらプレステにDVDをスロットインするのを見ながら壁際に座る。  って、ぶふふう!  ガン、と鈍い音がして壁に頭をぶつけてしまった。  思わず声が出そうになったのを必死で押し止める。  四つんばいになった桃乃さんのタンクトップが下にめくれて、中が覗けてしまったのだ。 (ノ、ノ、ノ…………!!??)  ノーブラ!? なんでノーブラなの!? 「ん? どしたの?」  セット完了してリモコンを持ちながらこちらにやって来た桃乃さんが不思議そうに僕を見る。 「え!? い、いや何でもないですよ!?」 「おっかしいわねぇ」 と笑いながら隣りに座る桃乃さん。脇が気になって仕方がなく、 視線が真横に 泳ぎそうになるのを必死で抑えながら、 (すごい実り方だった──って、だ、だめだ! 映画に集中しないと……!) と、目をギンギンに見開いて凝固したようにテレビを睨み付けた。  ストーリーは、元有名サッカー選手で今は落ちぶれた男が巨大なカニに強靱 な脚とゴールキーパーの才能を見出し、これで金儲けをしようと一念発起して 大会に出すが、カニゆえの誤解や偏見に苦しみ、時には茹でられそうになった りカモメに襲われたりしながらも、そうした数々の困難を乗り越えてついには 種を超えた愛情に目覚める……というものだった。  カニは脚の長いタラバガニの一種で、ハリボテのような巨大着ぐるみと明ら かに分かるものだった。そのくせ妙に凝ったリアルな造りと生っぽい彩色で、 カニがアップになると、なんというかこう、目を背けるほどではないが、さり とて正視に耐える造形でもないものを見せられ、得体の知れない気持ち悪さが 胸にもやもやする。 (なんだこりゃ……)  全体に流れるシュールというかニヒルというか、突き放したような演出に、 ギャグを言ってるのか、シリアスに決めてるのか、笑えばいいのか、泣けばい いのか、よくわからなかった。主役もカニを見出した男の方で、人間が話して いる間画面の隅で文字通り抜け殻のようにじっとしているカニが怖い。  カニも色々な目に遭うのだが、よく見ればカニ自体が動くわけではなく、周 りが手を出したりカメラのアングルが変わったりしてるだけだった。その辺は 巧いなとは思うのだが、表情もわからない(というか感情あるのか?)ので、 カニが何を考えてる(というか知能あるのか?)のかもさっぱりだ。  はっきり言って理解不能の映画としか評価できなかった。低予算の中、たぶ ん苦労して真面目に作ってるんだろうけど……。  隣をチラッと見ると、桃乃さんは缶ビールを傾け、ぼんやりとテレビ画面を 見ていた。  心ここにあらずといった表情だった。  やっぱり、つまらない……からだよなあ……。  タンクトップの脇から見える横乳に注意を向けるのは鉄の意志で封じ込める。  すると突然、 「タラバガニってさあ」 と、画面を向いたまま口を開いた。 「ええ」 「美脚なのは同意するけど、カニじゃなくてやどかりの一種なのよね」 「……へえ……」 「これ“やどかりサッカー”じゃん。ねえ?」 「……そう言われても……」  答えに窮するしかなかった。  ダラダラと起伏に乏しい展開にもいちおうクライマックスがあって、敵の卑 怯な反則によって味方がバタバタと倒れていくなか、最後に残ったカニがつい に奮い立ち、ボールを持って単身敵中をカニ走りで突き抜け始め、硬い甲殻と 鋭い鋏で並み居る敵を次々と薙ぎ倒していったが、多勢に無勢、容赦ないキッ クの嵐の前にあえなく轟沈。だが、「カニの分際でサッカーなんかしやがって、 鍋の中に帰りな!」と嘲けられると、カニは(たぶん)怒り、泡ストームで敵 をゴールごと吹き飛ばして決勝点を奪い取った。 『おい、今のはどう見てもハンドだろう!』 『あれは前脚だ』 (わけわかんない……)  あまりのくだらなさと意味不明さに閉口していると、 「ちょっとトイレいってくるね」 と、桃乃さんが立ち上がった。 「あ……いってらっしゃい」  僕は部屋を出ていく桃乃さんの背中をその場から見送り、独り取り残された ような気分で『カニサッカー』を見続けた。  とはいえ後はエンディングシーンがあるぐらいで、最後になぜか改心した男 が「我々にカニを好きにしていい権利なんかない。自然へ帰そう」と、カモメ がやたら鳴く海にカニを放し、まるで入水自殺を図るように波打ち寄せる海へ 潜ってゆくカニの遠景で終劇を迎えた。いちおう感動的なラストシーンのはず なのだが、カニの上で異様なほど群れるカモメが気になって仕方なかった。 「最後まで突っ込みどころ満載だったな……ある意味スゴイかも」  やっと終わって僕はヤレヤレとテレビから視線を逸らし、桃乃さんの部屋に 目を泳がせた。  大きな家具は衣装タンスにDVDケース棚とAVラック、そして壁際の机ぐ らいで、基本的に物が少なくすっきりとしていた。すっきり具合では僕の部屋 も負けてないけどね……ハハ……。 「それにしても、桃乃さん……やっぱり元気がないよね……遅いし……どうし たんだろう……。気のせいかな……ん……?」  何気なく独り言を呟やいていると、壁際の机に写真が広げられているのが目 に入った。  なんだろうと思って一枚取ってみると、数人の外国人に混じって日本人らし い眼鏡をかけた若い男性が、同じぐらいの背丈のアメリカ人金髪女性と並んで 収まっていた。他の写真も、全て同じ二人が楽しそうな笑顔で写っていた。写 真の下には、字がびっしりと書かれた手紙らしき便箋。 「これってもしかして……」  あまり見てはいけないようなものを見てしまった気がして、戻そうとすると、 「なにしてるの?」 「うわあッ!!」  心臓が止まるかと思った。  慌てて振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに桃乃さんが立っていた。  桃乃さんは机の上と僕の手元を交互に見て、「しまった」という顔になった。 「それ……!? あちゃあ、出しっぱなしにしてたの忘れてたわ……」 「ご、ごめんなさい!」僕はすぐに写真を元あった位置に戻した。「盗み見る つもりはなかったんです!」 「いいのよ」  桃乃さんは僕の頭の上から写真と手紙を拾い上げた。 「あんましこういうのは他人に見られたくないたちなのよね。でも、だったら 出しっぱなしにするな! だしね。……まあ、写真ぐらいならいいか……」  桃乃さんは僕の前に再び写真を置いて広げた。 「この眼鏡掛けた白鳥クンみたいな優男がそうよ。私の遠距離恋愛のオアイテ」 「へえー……」  上背のあるアメリカ人たちと一緒に並ぶとまるで子どものようだったけど、 しゃんと背を伸ばし、理知的な眼差しがとても印象的で、僕なんか似ても似つ かない美男子だった。 「格好イイ方ですね。桃乃さんみたく笑顔が素敵で……お似合いだなあ」 「──っ!?」 「……はっ!?」  返事がないので振り向いた僕が見たのは、顔を茹でガニみたいに真っ赤にし て僕を見つめている桃乃さんだった。 「なっ──なにいきなり言い出すのよ! もうっ──白鳥クンは……ああもう ホントにっ!!」 と、桃乃さんは照れ笑い全開で僕の背をバシンバシンと叩く。 「あいた、あいた! ス、スイマセン、スイマセンでした……っ!」  かなりイタかった。  またナチュラルにさらっと不用意なコトバを言ってしまったみたいだ……! 「もう……!」  コホンと咳払いをし、ようやく叩くのを止めてくれた。 「……で、周りの人たちがあっちの学校で出来た映画仲間だって」  僕は再び写真に目を落とした。 「要するにクラスメイトなんだけど、彼らで班を組んで実際に映画を撮ってる らしいよ。隣りにいる子は、かなり美人でしょ。白鳥クンはこんな外人さんが お好み?」 「ええ!? い、いえ、確かに僕も美人だとは思いますけど、別にそんな……」 「アハハ、動揺しすぎぃ〜」  桃乃さんは人差し指で僕の頬をプニプニと突っつき、僕の焦り顔を楽しそう に声を立てて笑う。  ひとしきりそうすると、微笑みを浮かべたまま視線を写真に戻し、フッと遠 い顔になった。 「……その子ね、手紙であいつもかなり褒めてるんだ。輝くアイデアがたくさ ん詰まった宝石箱みたいな子だって。映画に関する議論していると、いつも新 鮮な驚きを貰うんだって。映画や撮影に関する知識も並じゃなくて、一緒にも う何本か短い作品を作ってるらしいんだけど、それらの企画は彼女の存在無し には語れないんだって。  フフ、自分がどんな役割をどれほど頑張った、とかじゃなくて、まず他人を 褒めるなんて、あいつらしいよ……」 「そうなんですか……」 「なんかね……文面から感じるんだ。今のあいつにとって、その子って大きな 存在なんだなあって……。だって、あいつの筆に力が入るのは、決まってその 子が関係してる事についてなんだもん」 「……へえ……」  僕はどう返事していいかわからず、我ながら生返事だなと感じる呟きを漏ら してしまった。  呆れたかなと思って桃乃さんを見ると、桃乃さんも顔を上げた。  視線が絡み合った。 「……」 「……」  妙な間が空く。  だが、僕は桃乃さんの目から離れることが出来なかった。  桃乃さんは思い詰めた顔をして、悲しみ……不安……焦燥……そういった感 情が瞳の中に溢れていた。  僕の心に、先ほどと同じ驚きが、今度は見つめ合い続ける分だけ、じんわり と広がっていく。 (も……もの……さん…………?) 「私、ね……。……正直、辛いんだ…………」  桃乃さんは悲しそうに眉根をひそめ、視線を離した。 「長い間あいつの手紙を待って……やっと届いたのを、嬉しくて嬉しくて、中 を読んでみると……書いてあるのがほとんどその子の事ばかりだとね…………」  僕は何と言っていいかわからず、言葉を返せなかった。  ただ、心の中では、 (ああ…………) と、納得するところがあった。  桃乃さんがおかしい原因は、これだったんだ……。 「私、思うんだ。あいつは自分の夢に向かってどんどん進んでいて、しっかり とその道を踏みしめて、前を見て歩いている……。そんな歩みの傍にいて、あ いつの夢を支えられる存在であれば、どれだけあいつの助けになるか……。  でも、いくら私がたくさん映画やドラマを見たって、あいつと映画の四方山 話をするぐらいが関の山なの。  ……もう、私じゃダメみたい。  才能があって本気で同じ道を志す人には、どうやったって敵わないわ……私 よりもその子が傍にいた方が、どれだけあいつの力になるか…………」  僕は呆然として俯く桃乃さんを見つめる。  肩を落とし、小刻みに震える身体──彼女が抱く不安な気持ちが、いやとい うほど伝わってきた。 「そんなことないですよ!」  僕は思わず大声を出し、桃乃さんはビクッとして顔を上げた。構わずに喋り 続けた。 「桃乃さんは、その人を信じて待ってるんでしょ? だったら、最後まで信じ て待ってあげなきゃいけないじゃないですか!」 「でも……でも……!」  桃乃さんはキッと僕を見つめ返した。  思わずたじろいでしまうほどの迫力──が、さらに驚いたことに、その瞳か らぽろぽろと涙が溢れてきたのだ。 「私じゃもうあいつの力になれない……なれないのよ! 私は待ってるだけな んだから! ただここにいて待ってるだけなんだから!」 「そんな…………」  髪を振り乱して桃乃さんは叫ぶように言った。 「だってだって、あいつ書いてあるんだもん! 映画を作るのは大変な作業で、 だからこそ辛い時に力を合わせられる仲間が何よりもかけがえのない存在なん だって、そうつくづく思うって。  そんなあいつが、こんなにも意識してる子と一緒に映画作ってて、何もない わけないじゃない!  見てよ、この写真全部!」  桃乃さんはバン、と激しい音を立て、写真を机ごと両手の平で叩いた。 「あいつとこの子、どれもみんな、みんな一緒で、こんなに寄り添って……! こんなに仲良さそうに……! こんなに親しそうに……! なんでこんな…… なんでこんな写真ばっかり送ってくるのよ…………!?」 「桃乃さん…………」  すると、その肩からフッと力が抜けた。 「……もう……帰って来ないかもしれない……。映画産業は、アメリカの方が 本場だからね……。あいつ、勉強を終えても、このままアメリカで夢を追い続 けるかもしれない……私を置いて……この子と一緒に…………!」 「そ、それは考えすぎですよ。何もそうと決まったわけじゃないし……」 「でも……そうなったっておかしくないわよ…………!」  光沢を放つ紙の上で指が再び震え始め、パタパタと雫が落ちてゆくのを、僕 は呆然として見つめるしかなかった。 「なによ……こんなの……!」  桃乃さんは写真を束にして掴むと、腕を振り上げた。  僕はハッとし、とっさにその腕に飛びついた。 「桃乃さん!」 「離して! こんなのもう見たくないんだから!」 「写真に当たったって仕方ないじゃないですか! せっかく送ってきてくれた ものなのに!」 と、僕は桃乃さんにかじりつき、写真へのとばっちりをなんとか止(とど)めた。 「だって……だって……!」  桃乃さんの腕から力が抜け、その手からハラハラと写真が舞い落ちる。  涙を決壊させた瞳が、僕に向いた。  その一瞬、なにが起こったのか分からなかった。 「白鳥クン……!」  桃乃さんが僕の胸に飛び込んで来たのだと判断できたときにはもう、ドン、 とモロに命中しており、僕は(うぐっ!)と心の中で悲鳴を上げる。 「も──ももも桃乃さん……!?」 「私、私……! 不安でたまらない……もうたまらないの……怖いの……不安 で壊れちゃいそうなの………………!!」  僕は反射的に身を引こうと仰け反った格好のまま硬直し、この信じられない 事態が現実であり、桃乃さんが僕の胸に抱きついて来たのだということを、繰 り返し脳内で再生しなければならなかった。  桃乃さんはタンクトップの下に何もつけてないのだ。 (うわ! うわ! うわーーーーーっっっ!!!!)  薄布越しに、ふにゅん、と柔らかく押し付けられる桃乃さんの大きな胸。し かもその上、夢心地の中心にある硬い感触──乳首の形すらもありありと感じ 取れて!  僕は反射的に身を引こうと仰け反った格好のまま硬直し、この信じられない 事態が現実であるということを繰り返し脳内で再認識しなければならなかった。  首から上が何とかギ、ギ、ギ……と動き、桃乃さんを見下ろす。  僕は耳たぶまで真っ赤にさせ、その乳首が見えそうなほどはだけた胸の谷間 に目が釘付けになりながらも、 「し……しっかりして下さい、桃乃さん! こ、ここんな、早まってはイケマ セン! 気を確かに持って下さい!」 と叫び、桃乃さんを乗せた仰向け状態のまま、ドアの方へと身体を後退させて ゆく。ぼっ僕には梢ちゃんというリッパな想い人がいまして……桃乃さんの期 待には……!  だけど桃乃さんは激しく頭(かぶり)を振り、泣きじゃくりながら、ますま す僕にしがみついてきた。僕のシャツを引き千切らんばかりに引っ張り、 「だめなの……! もう、限界なの……! あいつが遠くに行っちゃう……ど んどん遠くへ行っちゃうのよお……! それなのに私は、私は、ここで待って るだけで……何も出来ない……!  私、私……あいつに追いつけない……近づく事さえ出来ないの……! その くせ、引き留めることだって出来ない……! 今さらあいつの所へ行ったって、 邪魔なだけなんだから……!  何も出来ない……何も……もう……私、どうすればいいのかわからない……!  わからないよ……!  もう、気が狂いそう…………!   白鳥クン……助けて……お願い、助けてぇ…………!」  胸をえぐるように揺すぶる、桃乃さんの悲痛な声。  僕はこれ以上、桃乃さんから身を離そうとすることが出来なかった。 (桃乃さん…………そんな………………)  桃乃さんは苦しいほど僕の胴を締め付け、肩を震わし、声を上げて、胸の中 で嗚咽を漏らし続ける。  どう言葉をかけていいかわからなかった。  あの桃乃さんが、こんなにも取り乱すなんて信じられなかった。  恋愛って……こんなにも辛いものなのか。こんなにも人を変えさせてしまう ものなのか…………。  気にしすぎですよ。  落ち着いて、自分をしっかり取り戻しましょう。  大切な人を信じましょうよ。  言葉はいくらでも浮かんだ。でも、どれも今の桃乃さんに対しては軽すぎる ような気がした──いや、そうじゃない。  僕が軽いんだ。  恋愛経験ひとつ持ったことのない僕が、こんな状態にまでなった彼女を慰め られるような言葉を、口に、出せない── (どうすればいいんだ…………)  非常に困った事態だった。僕一人の手には到底負えない。  泣きすがってくる人を強引に突き放すわけにもいかず、僕は桃乃さんの重み を一身に受けながら(とはいえそれは決して不快ではなくむしろ──うああ何 考えてんだ僕は!?)、どうすればこの状況を解決できるか一生懸命に考えた。  説得する。だからダメじゃん。  逃げる。だからこれじゃ逃げられないし!  声を出して人を呼ぶ。そんなコトしたら桃乃さんが恥ずかしい思いをしないか?  あああ、ダメだ、ダメダメだ。一体こういう時はどうすればいいんだ!?  混乱を来(きた)す僕の鼻腔に、ふんわりと、桃乃さんの髪の毛とカラダか らお風呂に入った芳しい匂いが登ってくる。  胸をザワつかせる甘ったるい薫り……!  と、とにかく桃乃さんを落ち着かせて、誰かに相談しに行こう。  梢ちゃん、珠実ちゃん──いやこういう時は大人の方が──そうだ、沙夜子 さんか灰原さんに──うう、ここは藁にもすがる思いで灰原さんに……。  そう決めて、「桃乃さん、あの……」と呼び掛けて彼女の肩に手を置いた時 だった。 「白鳥クン…………」  桃乃さんが顔を上げ、ぼろぼろと涙をこぼす悲嘆に暮れた瞳で僕を見つめた。 「桃乃さん…………」  桃乃さんのそんな表情(かお)を見るのは、こちらも辛かった。  いつも陽気で朗らかで、ちょっと騒々しいぐらい調子いいけれど、でもそう やって元気に周りに明るさを振りまいてくれる桃乃さんが、一番桃乃さんらし いのに……!  桃乃さんの泣き顔を見つめながらそんなことを考えていると、彼女は僕を床 に押し倒し、のしかかるように上へ座った。 「え、え、えええっ!? あ、あ、あの、あの……!?」  僕の反応は太古の恐竜鈍重説並に遅かった。  抜き差しならぬ体勢。  僕は床に後頭部を擦り付けながら、マウントポジションからゆっくりと顔を 近づけてくる桃乃さんを、未知と遭遇したような目で見上げ、起死回生の言葉 を必死に探す。  星が砕けちったように光り潤む瞳、なかば正気を失いかけて──星のかけら が僕の頬にいくつもいくつも溢れ落ちてきて、 「お願い……白鳥クン……お願い……………………」  流れ星の間隔が短く、僕の目にも入り、彼女の唇が曇りながら大きくなって 来るのを、言葉を失いながら見続けるしかなかった。  僕はこの時、彼女を傷つけても誘惑を拒めば良かったと思う。そして、桃乃 さんが笑顔を取り戻すまで、形振り構わずに全力で勇気づければ良かったと、 そう思う。それが僕が彼女にしてあげられる最善の選択肢だったはずだ。  でも、その時の僕にはまだ、優しさが時には人を傷つけるものだということ を、よく理解できていなかったし、惑乱した彼女を諭すことが出来るほどの人 生経験を積んでもいなかった。  今、手を差し伸べなければ本当に壊れてしまいそうな女性(ひと)を見捨て ることなんて出来ない。  そして何より、桃乃さんにこんな泣き顔は全然似合わない。いつもの元気で 明るい桃乃さんが一番いい。戻って欲しい。  僕がこのギリギリの瀬戸際で求めたのは、ただ、それだけだった。  それだけのはずだった。 (ゴメン……梢ちゃん…………!)  僕は──桃乃さんの唇を受け入れた。                             (後編へ続く) あとがき: オホホ、またレス数を間違えてよ。トホホ。 後編は一転して冒頭のようなエロエロエロエロ一色です。 畳まずに投げっぱなしジャーマンになります。 リアルがかなり忙しい筈なのに現実逃避気味に書いちゃったので、 間はけっこう開くと思いますがよろしくお願いします。