----------------- Who were be It ? ----------------- 0/ ―――……………… ……………ココは…何処だ? ……いや、それよりも…何か、息苦しい。 何だってこんなに人が多い、ん―――? ――――――――!? ! お、おい! 待て!待てって! オイ!待―――…痛っ! ちょっ、どい……おい、通せ!どいてくれ! アタシはお前に―――くッ…おい!待て! 頼む!待ってくれ! 待っ、て…… 待、って、く―――――…… 1/ ぽきり。 「…あ」 大して力は入れていなかった、筈、なのに。 鉛筆の尖端がスケッチブックの画面に触れた瞬間、 ソレはまるで切れ目でも入っていたかの様に、割合大きな音を立てて折れた。 ―――午前11時20分、デッサン実習。 話し声も無く、室内には黒鉛が画用紙の表面をなぞる音だけが響いている。 「……?」 白鳥隆士は少し首を傾げながら、芯の折れた鉛筆を訝しげに見詰めた。 …少しだけ。 少しだけだけど。 根拠も何も無いけれど。 ―――何となく、不吉な予感がした。 例えば家に帰ったら梢ちゃんが早紀ちゃんになっていて、 僕が帰るなり正拳の一発でもお見舞いされるんじゃないかっていう、そんな予感――― 「…って、そんな事ある訳無いか……」 隆士は小さく溜息を吐くと、代えの鉛筆を手に再び静物との睨めっこを始めた。 季節は夏。 外では輝く太陽が、これでもかという位にその存在を主張している――― 2/ 「…お母さん…そんな所で何やってるの?」 炎天下の中、滝のような汗を流してせっせと何かを拵える母の背中に、 やはり滝のような汗を流し、手に持った段ボール板で自分と彼女とを交互に扇ぎながら、黒崎朝美は声を掛けた。 ―――同時刻、鳴滝荘玄関前。 太陽の強過ぎる位強いアピールは此処でも相変わらず健在で、 じーわ、じーわ、と鳴く蝉の声は最早、その欝陶しさに拍車を掛けるだけのモノに成り果てている。 「…雨乞い」 「え?」 「…雨が降れば涼しくなるから…こんな事も有ろうかと作っておいたの…雨乞いの人形…」 そう言って、彼女―――黒崎沙夜子はその仔犬程の大きさの自作の人形を、それこそ仔犬を愛玩する様な手付きで軽く撫でた。 陽避けの為に被っている麦藁帽子が、不思議と彼女の服装にぴったりと似合っている。 因に朝美はと言うと、半袖の体操服上下にビーチサンダルという出立ち。 「………効くの?これ」 「効くわ。絶対」 「…………」 0.3秒で即答されては反論のしようも無い。 「…でも、こんな所に置いたらちょっと危ないんじゃないかなぁ」 と言って朝美は、足元の人形をちらりと見る。 大きさは仔犬程でも、石造りであるそれは意外にかなりの重みがある。 そんなモノが玄関先に有っては、外に出ようとした人が足を引っ掛けて転んでしまうかも知れない――― 「駄目。駄目なの、此処じゃないと」 「……………」 記録、0.9秒。 加えてこんな時に限って妙に抑揚のある喋りをする母に、朝美は半ば呆れるしか無い。 ―――まあ…後から皆に注意しておけば大丈夫、かな…… 朝美はそう結論を出すと、まさしく「限りなく透明に近いブルー」と形容出来そうな色の空を遠い目で仰ぎ見たのであった。 3/ 午後4時。 講議も終わり、隆士は傾きかけても尚衰える兆しの見えない陽の光を全身に浴び、 やはり―――滝の様な汗を流しながら―――やっとの事で家路についた。 「あ"〜つ"〜い"〜…」 ―――無論、あの時感じた「嫌な予感」の事など、とくに忘れている。 玄関前の飛石に一歩踏み出した時、玄関の戸がガラリと音を立てて開いた。 「あ、白鳥さん。丁度好い所に来てくれました」 戸を開けるなり彼に向かって嬉しそうにそう言ったのは、 鳴滝荘大家兼彼の恋人―――と言うと何と無く彼が可哀相なので―――もとい、彼の恋人兼鳴滝荘大家、蒼葉梢。 「丁度好い…って?」 と訊ねながら隆士は、無意識に彼女の足元―――に、在るモノ、に目を留めていた。 …言うまでも無く、例の雨乞い人形である。 ―――何だろう…コレ? デザインからして造った人は容易に想像が付くが、いかんせん用途がさっぱり解らない上に置いてある場所が場所である。 加えて彼女は、恐らくその存在に気付いて―――仮に気付いているとしても、特に気に留めては―――いない。 危ないな―――と。 一瞬だけど、そう思った。 「今、丁度西瓜を切っていた所なんですよ。 宜しければ白鳥さんも一緒―――」 ―――ガッ、という音。 或る人曰く、 期待は外れる為に在り、 不安は当たる為に在る、と。 案の定と言うべきか、 梢は足元の人形に、見事に足を引っ掛けていた。 4/ 「…ッはぁ〜…セーフ……」 皮肉にも「嫌な予感」が、言わば心構えの代わりとでもなったのか。 自分でも驚く程の瞬発力で、隆士はフワリと浮いた梢の前まで駆け寄り、 殆ど崩れ落ちる直前の彼女の身体を受け止めていた。 ―――よかったー…気付いて… ……っと。そうだ、梢ちゃん…! 「梢ちゃん、大丈―――」 「白鳥」 「…………え?」 ―――「白鳥」? 軽いデジャヴ。 脳裏に甦る「嫌な予感」。 「『え?』じゃねぇよ…白鳥、テメェ―――」 鳴呼…このドスの効いた喋り…… 時既に遅し、蒼葉梢ちゃんは赤坂早紀ちゃんに早変わりしてしまったのでした。 ―――と半ば現実逃避気味の隆士だが、何とか今の状況に疑問を持てる程度の思考能力は残っている。 ―――って言うか、え?何故?何故にお怒りに? 「…こンの…ドコ触って……ッ!」 「ど、何処って…うわぁッ!」 隆士は顔を真っ赤にしながら、今の今まで彼が触れていた場所―――要するに胸である―――から、パッと左手を離した。 どう受け止めれば胸に手が触れるのか、という野暮な疑問はこの際、無しにして欲しい。 「ち、ちちちち違うよ!コレは不可抗力で…!」 「なァにを訳の解らないコトをッ……」 両手をずい、と前に出し、且つ後退りしながら必死で弁解をする隆士に、 一歩、また一歩と迫る早紀の威圧感は、宛ら獲物を追い詰める獅子のそれである。 「言って…や・が・ん―――」 この時、彼は初めて神というモノを恨んだ。 ―――神サマ、僕ハ何カ悪イ事ヲシマシタカ?――― 「だーッ!!」 「だーッ!?」 5/ ―――その頃。 「……あら?」 「どうしたヨー…?」 「今、なんか凄い音しなかったかい? 車か何かが壁に思いっ切りぶつかったような感じの…」 「気の所為ヨー…それよりこの暑さどーにかならないかヨー? 私の故郷だってこんなに暑くなんかならなかったヨー…」 「仕方無いでしょ?此処は日本なんだから……ってちょっとアンタ! ナニ店の売り物勝手に喰ってるのッ!?」 「ケチケチしないでヨー、ドラ焼きアイスの1コ2コ3コ5コ10コくらい…」 「喰い過ぎ!あぁもう何時の間に…ちゃんと代金払ってよね! ……あ、いらっしゃい!…ハイ、鯛焼き3コね!まいどー!」 「まいどありヨー…」 ―――知らぬが仏とは、善く言ったモノだ。 6/ 夕刻。 鮮やかなオレンジの陽射しに染まった回廊。 平盆の上、六等分された西瓜が二つ。 それを軸に、点対称に並ぶ二つの影――― 白鳥隆士。 赤坂早紀。 彼等は横並びに座り、各々がそれぞれ違う景色を見ている。 その視線が出会う事は、今の所まだ無い。 「…………」 「…………」 ―――何と言うか、気不味い。物凄く。 …まあ、アレの後じゃ、なぁ…… と、隆士は鳴滝荘の門―――の向こうの、コンクリート塀に目線を移した。 彼が早紀に殴り付けられ、挙句に叩き付けられた壁である。 少し血の跡が見える様な気がするのは気の所為だろう。 少しヒビが入っている様な気がするのも、きっと気の所為だろう――― ―――あの後直ぐ、騒ぎを聞き付け、駆け付け(てくれ)た皆がほぼ全員がかりで早紀ちゃんを宥め(てくれ)、 事情を説明して漸く早紀ちゃんが落ち着いた所で、桃乃さんの発案で「早紀ちゃん久々登場記念」の名目で例の如く宴会――― までは何時も通りだったのだけれど、今回は妙に早くソレがお開きになって――― ―――気が付いたら、こうして二人きりになっていた、というワケだ。 ……何か凄く作為的なモノを感じるが、 此処は皆の親切と受け取っておこう――― 「白鳥」 「ひ、ひゃはいっ!?」 人間、考え事をしている時に突然声を掛けられると、時として必要以上に驚いてしまうモノだ。 或いは、自分の胸中を見透かされている様な錯覚を覚えてしまうのかも知れない。 彼の場合もそれは例外では無く、悲鳴に近い返事は裏声という始末であった。 しかし、当の早紀はそんな彼の素振りにも気付かない様子で、 「あの…その、だな…」 と、普段の彼女からは想像も付かない程の蚊の鳴く様な声でぼそぼそと何かを呟いている。 「?」 「その…アレだ。さっきは、悪かった。謝る」 早紀はそれだけ言うと、信号機の様に顔を真赤にして俯いてしまった。 「…………〜〜〜っ!」 ―――うわぁぁ、ギャップって恐ろしい。 って言うか反則。 その顔は反則だよ、早紀ちゃん…… 此処で「許さない」と言える男は男じゃない―――などと中途半端に哲学的なコトを考えつつも、 何とか―――四方や必死に―――返す言葉を、隆士は捜す。 「あ、ああ平気だよ平気。別に怪我も無いし…それに、久し振りに君に会えて僕も嬉しいから―――」 ―――あ。 言ってから気が付くも、既に後の祭り、後悔先に立たず。 ―――また僕は。 何の考えも無しに、そういう言葉を――― 「………………」 当の早紀はと言うと、真赤な顔を更に耳まで赤くして俯いた侭、じっと黙り込んでしまっている。 「…いや…あの、ね…それは…その……うぅ」 ―――正直、恨めしい。 考えるより先に言葉が出る自分の性格が。 この状況を打破出来ない自分の頼り無さが。 ……ついでに、こんな時に限って何時もの威勢の良い言葉を返して来ない早紀ちゃんの意外な程の可愛さが。 或る意味、この状況は殴られるよりも泣かれるよりも服を脱がされるよりもずっと辛い。 いっそ、さっきみたい思いっ切り撲って貰った方がマシだったかも知れない――― だけど―――と、隆士は思う。 ―――『久し振りに君に会えて、僕も嬉しいから』――― だけど―――何も考えずに言ったという事は、その言葉に偽りが無いという事でもあるのではないだろうか。 ―――そう。 僕が梢ちゃんが好きだという気持ちに、何の嘘偽りも無い。 それは無論、早紀ちゃんにも――― 「…白鳥」 「うぁハイっ!?」 …本日三度目の裏声。 今日一日で寿命が何年縮んだか解らない。 ―――読まれてる。 絶対読まれてるよ、僕…… パンク寸前の心臓を何とか押さえながら、隆士は早紀の顔を見る。 ―――と。ふと、目と目が合った。 「…ひとつだけ、訊いていいか?」 ―――気付けば、もう頬に朱は差していなくて。 「う、うん…何?」 ―――僕は、その燃える様な紅緋の瞳に、唯吸い込まれそうになっていて。 「………その、な」 ―――だから、そのあまりに突然の言葉は―――― 「梢って…誰だ?」 7/ ―――数分前。 隆士と早紀を二人きりに、という恵発案の作戦「オペレーションフォーリンラヴγ」が見事に成功―――したのは良いが、 如何せん「何もしない」というのは退屈で仕方無い。 …と、言う訳で。 例によってと言うか自然な成行でと言うか、彼女達は近くの空部屋―――7号室―――で 陰ながら慎ましく微笑ましく面白く、二人の様子を伺う事にした、のだが――― 「ごめんなさい!ホントにごめんなさいっ!」 「ごめんなさい…」 朝美と沙夜子は恵に向かって、親子揃って深々と、そして何回も頭を下げた。 沙夜子に至っては泣き付く様に恵の身体に抱き縋っている。 「いや、だからもういいんだって…取り敢えず頭上げて、ね?」 対して、恵―――桃乃恵は困った様に苦笑いを浮かべる。 「第一、私や珠ちゃんに謝るのはちょっとばかりお門違いだわよ?」 「うぅ…で、でもっ……私の…不注意の、所為でっ…皆に…迷惑が……」 その言葉を遮る様に。 朝美の肩に、ぽん、と手が置かれた。 「だーれに迷惑がかかったって言うのよ? 皆早紀ちゃんに久し振りに会えて喜んでるし、白鳥君だって……それに早紀ちゃんだって、 私達に―――白鳥君に会えて嬉しいと思うわよ? ほら、泣かない泣かない! 朝美ちゃんは悪くないし、沙夜ちゃんにだって悪気があったワケじゃない。 勿論白鳥君にだって、梢ちゃんにだって責任は無いの。 過ぎた事を悔やんでも仕方無い。 朝美ちゃんと沙夜ちゃんの『おかげで』早紀ちゃんと楽しく宴会が出来た―――それでいいんじゃない?ね?」 そう言って"ニカッ"と笑う恵の表情は、その時の朝美にはあまりに眩しくて。 見ていると、次から次へと涙が溢れて来て。 ―――だから朝美は、その笑顔から目を逸らして。 何も言えずに、恵の身体に抱き着いた。 「…………」 恵もまた何も言わず、そのまま朝美の頭をそっと撫ぜる。 「しっかりしすぎ」―――というのは隆士の言葉だが―――と言うより、 総ての責任を一身に背負ってしまおうとする様な―――そういう人間だ。黒崎朝美という子は。 だから、こうした機会にこそ精一杯甘えておかなければならない。 山と積まれるその責任を真に負うべきなのは、他ならぬ私達の方なのだから――― 「……で、どう?そっちの方は」 恵はそのまま、ドアの方―――隆士達の「監視役」である、茶ノ畑珠実の方を振り向く。 「―――桃さん、台所のアレ、まだ残っていましたよね?」 珠実は質問には答えず、振り返りもせず、唯無表情な声で質問を返した。 「え…あ、うん…まだ少し」 そう答えながら恵は、何処か彼女の様子に違和感を感じた。 少し…声の調子が、何時もと違う。 喜怒哀楽のどの感情とも異なる何かが、その間延びした声には込められていた。 そう、例えるなら――― 「じゃあ―――悪いですけどソレ、ちょっと持って来て貰えませんか?」 「え…?」 例えるなら―――不安。 「この侭では、もしかすると―――強行手段に出なければならないかも知れませんから」 そう言って振り返った彼女の、何時もと変わらない筈のその笑顔が。 何故かその時の恵の瞳には、この上無く寂しげなモノに映っていた。 8/ 「…………え?」 一瞬、時間が死んだ様な錯覚を感じた。 蝉の声も聞こえない。 茹だる様な暑さも感じない。 頭の中も真っ白で。 唯、自分の心臓が妙に速く脈打つ音だけが聞こえる――― 有り得ない質問。 有ってはならない質問。 それは、最早禁忌の類。 その言葉を今、目の前の少女は口にし。 それは例えば刃物となって、皮肉にも彼女の恋人の喉元に容赦無く突き付けられる。 「………ど、どうした、の?突然」 目前の景色がぐるぐると渦を巻く。 自分の声すらも遠く感じる。 やっとの思いで絞り出した言葉は、 最早掠れ声に近いモノだった。 自分が情けなかった。 莫迦みたいに動揺している自分が目の前に見える様だ。 が、早紀の方も先程の言葉を口にするのは結構な決心を要したらしくかなりテンパった様子で、彼の素行には気付く兆しすら無い。 それが幸か不幸かは、彼等にはまだ解らないが――― 「いや…ほら、寝てたアタシが目醒ました時とかな、他にも時々アタシの事を"梢ちゃん"って呼ぶ事があるだろ? その…何だか、気になってな。 …もしかしてソイツ、アタシに似てたりとかするのか?」 ―――どくん。 心臓が、一層強く脈を打った。 血液が逆流する様な感覚。 しかし哀しいかな、"彼女"はまだ。 ―――アタシに似てたりとか、するのか? 恋人の首を締め上げているのが、他ならぬ自分の両の手だという事に―――否、 そもそも眼前の恋人が必死に平静を装っている事にすら、彼女は気付いていない。 いや、気付いてはならない。 気付かれてはならない。 言わばそれこそが禁忌。 或いは、ゲームオーバー。 「………そ…」 何とか誤魔化さなければ―――その一心で、隆士は焼き切れる寸前の思考回路を更にフル回転させる。 汗が生き物の様に全身を伝う。 口の中は既にカラカラ。 「…そ、そうそう!」 その一言を口に出したら、 後はもう自然と、 ダムの崩れた川の様に、 言の葉は次々と、 それこそ数珠繋ぎに溢れ出て来た。 「僕の通ってる学校に早紀ちゃんにそっくりな娘が居てね、 同じ講義を受けてる事もあるから結構仲が良いんだけど―――あ、仲が良いって言っても『友達として』だけどね」 アハハ、と笑いながら隆士は頭を掻く。 ―――最低だ。 自分に嫌気が差した。 同時に感心すらした。 此処まで見え透いた嘘が、堂々と口に出来る自分に。 元々、自分は決して嘘の上手い人間では無いし、特にそれを嫌だとも思わない。 それでも今回ばかりは、自分の「拙さ」を呪わない訳にはいかなかった。 背中に伸し掛かるは「嘘も方便」の4文字。 否応無く、容赦無く、そしてあまりに重い。 「――――」 早紀が口を開く。 出て来る言葉は「嘘吐き」か、それとも――― 「…そう、か」 ―――――え? 「…ガッコの友達―――か」 ―――――え?ええ? 「納得」―――それはその時の彼にとって最も有り得ない選択肢であり、 予想外の事態には慣れているつもりであった彼でも、自分の耳を幾度と無く疑った。 だが―――驚愕の念は、まだ治まる事を許してはくれない。 「なあ白鳥、そいつ―――」 軒上に座った侭、早紀は上半身だけを隆士に向け、床に手を付いて話す。 「……鏡みたいにアタシに似たカオしてて、眼の色は蒼―――なんて事無いよな?」 「!」 コレは効いた。 誤魔化しがてらに一口噛った西瓜を喉に詰まらせかけ、隆士はゴホゴホと咳き込んだ。 最早、彼女の言動の全てが読めない。 解ってて言っているんじゃ―――とも思ったが、返答を待つ早紀の表情に詮索の念の類は微塵も見えない。 第一、5人居る人格の中で或る意味最も素直な性格である彼女に、こんな「芸当」が出来るとは思えない――― こちらを見詰める彼女の両の瞳はあまりに朱く真っ直ぐで、寧ろこちらの胸中が見透かされている様な気さえする。 「……………」 先刻の事もある。 もうこれ以上、この両瞳の前で嘘は吐けそうに無い――― 彼は観念した。 "Yes"と―――そう、頷いた。 ―――或いは、それが不味かった。 「!?」 がしり、と。 突然、早紀の両手が隆士の肩を掴んだ。 「え?ちょ…」 もう訳が解らない。 後ろに逃げようにも、肩を握る早紀の力は元が梢とは思えない程強く、隆士は動く事さえ適わない。 肩に爪が喰い込む。 その痛みに隆士が顔をしかめた時、早紀はゆっくりと顔を上げた。 ―――視線が、出逢った。 「ちょ…ちょっと、早紀ちゃ―――」 「頼む!」 ……一瞬の、沈黙。 例えるなら、幕間。 「…………え?」 ―――さあさあ皆さん、準備は整いました。 「今すぐ―――そいつに会わせてくれ!」 ―――彼等の行く先は天国か、はたまた地獄か? 「…早…紀、ちゃん……?」 ―――それでは、いよいよクライマックスです。 「アタシは―――」 ―――どうぞ皆さん、ごゆっくりと御観覧あれ―――― 「―――アタシは、そいつを知ってるから」 9/ 「あれ〜?バラさん何やってんの?」 といきなり声を掛けられ、灰原由起夫は煽ったばかりの焼酎を派手に吹き出した。 「……桃、ソレはこっちの台詞だぞ?」 本体(?)である灰原が噎せて咳き込んでいるにも関わらず、右手のジョニーは全くの自然体で流暢に喋っている。 器用な人だ、と恵はつくづく思った。 ―――現在地、鳴滝荘内炊事場。 恵はにゃははは、と笑い、 「だってねぇ…流石にあの二人の前を堂々と歩く訳には行かないでしょ?」 と言いながら、小窓から身体を乗り出す。 ―――要するに、裏庭の方を迂回して来たという事らしい。 身軽な奴だ、と灰原はつくづく思った。 「だったら、俺だって同じさ」 言いながら、灰原は炊事場のドアを―――というより、その向こうに居る二人を―――見遣る。 「俺も…何か、出辛くなっちまってナ」 はぁ、と哀愁漂う溜息。 それとは対称的な、焼酎の瓶の詮を抜く"ポンッ"という景気の好い音。 その瓶をグラスに近付け―――かけた所で、 「だから、こうして酒を―――あ」 ひょい、と、恵の手がそれを取り上げた。 「オイ、それは俺の―――」 「ゴメン、ちょっとだけ貸して! ね?」 と、恵は胸の前に手を出す仕草をする。 「『ね』って、お前…」 「大丈夫だって、カラにしちゃう訳じゃないんだから。 珠ちゃんに持って来てって言われてるのよ」 「珠が…?」 ジョニーが訝しげな表情を浮かべた―――様に見えたのは、多分気の所為だろう。 「うん…何だか―――」 ―――思い詰めた様なカオしてた。 そう言いかけて、恵は言葉を飲み込んだ。 …明確な理由は無い、けれど。 それは、今、此処で、謂うべき言葉では無い。 確信的な第六感―――とでも言うのだろうか、彼女はそんな事を、そういう類のモノで感じていた。 「…桃?」 「―――ううん、何でも無い。…じゃ、コレ借りてくわね」 誤魔化すように、或いは逃げるように。 恵はそう言いながら、ドアノブに手を伸ばして――― 「―――夢を、見るんだ」 ―――その手を、ピタリと止めた。 「…桃……?」 やや心配がかった灰原の声も、恵の耳―――には入っていたが、頭にまでは届かなかった。 なんだろう。 一種の既視感。 同じ様な台詞を、以前、何処かで――― ―――――夢を、見たんです。 「…………」 ―――ああ、そうだ。 あれは、今とは正反対の季節。 空模様こそ今の様に晴れ渡ったモノだったけれど。 下を見れば、目に映るのは真白な積雪。 其処で「彼女」は、そう、告げた。 同じ顔の少女。 だけど、五人は全く別の「人間」。 性格は疎か、名前すら違う少女達。 だけど、彼女は一人。 「五人」という「一人」。 しかし、「五人」はあくまで「五人」。 「彼女」はその中の、歴とした「一人」。 緑川、千百合――――。 「…………」 何て事は無い。 「彼女」は唯、あの時と同じ言葉を口にしているだけなのだから――― 「……桃」 「………あ」 灰原の声で、恵は漸く気付いた。 涙が、頬を伝っていた。 10/ 「―――夢を、見るんだ」 時刻、20時25分。 太陽のアピールは何時の間にか終わり、入れ代わりに上弦の月が凛々と空に輝いている。 太陽に負けじとあれほど五月蝿く鳴いていた蝉も今ではすっかり声を潜め、 代わりに少しばかり気の早い松虫や蟋蟀が、競って自己の主張を始めていた。 空には、月に負けず劣らず明るく輝く満天の星。 それをぼんやりと見上げながら、早紀は静かに、そう告げた。 「夢…?」 隆士が訊き返すと早紀は頷き、口を開く。 瞬間。 ほんの一瞬だけ、早紀が声を出すのを躊躇ったのを、隆士は見逃さなかった。 11/ ―――気が付くと、アタシは路のド真ん中に居た。 「―――………………」 スクランブル交差点―――って言う名前だったっけか―――を彷彿とさせるような、バカでかい道路の上に。 「……………ココは…何処だ?」 ぽつりと一言、呟いてみる。 それは意味を持たない字句の羅列に、或いは同じく意味の無い音声の塊となって宙を泳ぎ、 やがて吸い込まれる―――その先は、空虚な空間ではなく、疎らな足音だけの喧騒に溢れた人込みだった。 「…………」 ……何か、息苦しい。 全く… 何だってこんなに人が多い、ん―――? 「――――――――!?」 暫く周りを見渡していたアタシは、殆ど直ぐと言ってもいいくらいに。 ―――「そいつ」に、目を留めていた。 例えるなら、正に鏡。 頭のてっぺんから爪先まで―――恐らくは、爪の長さから髪の毛の本数まで、 そいつを構成するありとあらゆる要素が、私のそれと完璧に一致していた。 ―――眼の色と、恐らくは性格を除いては。 そいつは、とにかく優しいカオをしていた。 ぞっとする程の、優しく、穏やかな表情。 アタシには絶対に出来ないような―――何もかもを許して、 ゼロに戻してしまうような―――優しくて、そして残酷な、表情。 「――――――」 アタシは暫く動けなかった。 蛇に睨まれた蛙のように。 冷汗とも何ともつかないモノが、背中を伝うのを感じながら。 「!」 やがて、そいつはくるりと後ろに向き直り。 アタシは「呪縛」から解放された。 「お、おい!待て!待てって!」 徐々に遠ざかって行くそいつの背に向かって叫びながら、 アタシは今迄の「呪縛」が嘘のように、またそいつの背を目掛けて走り出す―――筈だった。 ―――が。 「オイ!待―――…痛ッ!」 一歩を踏み出したばかりのアタシを、無慈悲な人込みの波が阻んだ。 何時の間にかは判らないが、気付くとヒトの数はさっきの倍くらいになっていた。 「ちょっ、どい…! …おい、通せ!どいてくれ!」 幾ら叫んでも、人波はアタシに見向きもしないで流れて行く。 無理に流れに逆らおうとしても、アタシ一人では何百、いや何千というヒトの波には到底太刀打ち出来ず、 唯アタシだけが体力を消耗して、余計に流され易くなってしまう。 感情が無いモノというのは恐ろしい。 慈悲も憎悪も―――関心すら感じずに、唯迷い込んだ者を飲み込んで行くだけ。 そういう「生き物」なのだ。この波は。 そうこうしているうちにそいつは刻一刻と、徐々に、しかし確実に遠退いていき、 最早その姿すら見えなくなりかけている。 「アタシはお前に―――くッ…おい!待て! 頼む!待ってくれ!」 『お前に』―――何なのだろう。 アタシは何故、此処まで必死にそいつを追い掛けているのだろうか。 正直、自分でも理由なんて解らない。 …いや、理由なんて知った事じゃない。 だけど、頭の何処かでアタシは感じていた―――いや、解っていた。 アタシは、そいつを追い掛けなきゃいけない。 そいつに追い付かなきゃいけない。 追い付かなきゃ、いけない、のに。 「待、って、く―――――……」 そいつの背中が、 そいつの姿が、 消えてゆく。 見えなくなる。 目の前が霞む。 人込みも、何時の間にか居なくなる。 ―――遅いんだよ、今頃。 そう呟きながら、やがてはアタシも――― 12/ 「……………」 話の間、隆士は終始、まるで瞬きすら忘れてしまったかの様に目を見開いたままで居た。 それは、驚いたと言うより―――寧ろ、悲しんでいる―――そんな、表情で。 ―――なんて、夢だろう。 彼の思いは、或いは叫びに近かった。 なんて悲しく、 なんて不毛で、 そして―――なんて、救いの無い夢。 「………」 早紀は隆士の顔を横目でちらと見ると、 「まあ…でもな。何時も、何から何まで同じ夢ばかり見る訳じゃないんだ」 苦笑いを浮かべながら、再び星天へと視線を移す。 「…その時々で、景色―――と言うか状況だな。そう言うモノが、一回一回変わるんだよ。 ヒトの流れが速かったり、遅かったり。 ヒトの数が多かったり、逆に少なかったり。 時々、そいつが殆ど見えない程遠い所に居たり、かと思えば直ぐにでも捕まえられそうな程近い所に居たり。 そいつの方から近付いて来る時もあったし、直ぐに走って逃げちまう時もあった。 ヒトの顔や恰好だって、毎回、しっかり一人一人違う。 この前なんか、アタシもそいつもパジャマ姿だったんだぜ?笑っちまうだろ?」 額に手を当て、早紀はくつくつと笑った。 それは宛ら、昔を懐かしむ青年のように。 「―――最近は、そいつの方から近付いて来る事も多くなった。 アタシの声も届いてるみたいで、去り際にこっちを振り返るようにもなった。 人波も苦じゃなくなって来たし、現に数も勢いも無くなって来たような気だってする。 ―――もう少し…もう少しなんだ。 もう、少し―――だけど―――まだ、なんだよ。 いける、って―――そう思って伸ばした手が空を掻いて―――此処何日か、アタシは何時もそうやって目が覚めるんだ。 何も無い所を掠う感覚がまだ手に残ってて、気が付いたらアタシは泣いてる。 何か…凄く大切なモノを、自分の所為で失くしたような気持ちになって ―――情けねーけど、どうしようも無くて、アタシは唯泣く事しか出来ない」 「…………」 隆士が何か言いかけようとすると、早紀はそれを遮るように言葉を続けた。 「―――だから、お前に『アタシにそっくりな奴』の話を聞いた時は、正直言って嬉しかった。 見えてるのに手さえ届かない、目の前に居るのに話も出来ない ―――下手したらずっとそういう関係の侭だったかも知れない奴に、もしかしたら会えるかも知れないんだ」 早紀の声は既に震え始めている。 その事には、隆士も気付いていた。 ―――いや、「気付いた」、その瞬間。 「…!?」 ドン、という物音。 隆士の肩に向かって伸びる早紀の腕は、実際信じられない程の速さだった。 その所為かも知れない。 早紀に「押し倒された」という状況を彼が理解するまでに、多少の時間を要したのは。 「ちょ、ささ早紀ちゃ…」 「解ってる!」 殆ど重なる二人の声。 そして、沈黙。 「……解ってるよ。 アタシが見たのは唯の夢だ。そいつ自体、唯の幻想に過ぎないかも知れない ―――いや、寧ろその可能性の方がずっと上だし、そう考えるのが自然―――と言うか普通だよ。 だけど―――アタシには何と無く解るんだ。 この機会を、今を逃したら…多分、次は無い、って…じゃないと、アタシは―――アタシは、多分、自分が壊れちまう」 ぽとり、と。 隆士の頬に、一粒の雫が落ちた。 滅多に泣かない少女の、涙。 彼は其処に、 既に壊れかけている彼女を、見た。 「だから―――頼む!そいつに会わせてくれ!今直ぐ! 人違いだって構わない、後悔は、しない…だから… 頼むよ……なあ…頼むからっ……!」 がくがくと身体を揺さ振られながら、隆士はしかし、心此処に在らず―――そんな表情で早紀の顔を見上げていた。 それは例えば、後悔。 目の前で苦しんでいる恋人に対して、 マトモな考えも無しに、 或いは現実から逃げたいが為に、 取り返しの付かない嘘を吐いた自分への、羞恥と後悔。 ―――僕は、最低の人間だ。 そんな思いが、彼の頭を過ぎった、その時だった。 「まあまあ早紀ちゃん〜」 ―――――え? 二人の耳に飛び込んで来たのは、 この状況にはどう考えても相応しくない類の、第三者の声。 間延びした、良く通る声。 あまりにも聞き慣れた、少女の声――― 「……珠実、ちゃん…?」 天使とも小悪魔とも付かない茶ノ畑珠実の、何時もながらのその笑顔に。 その時、隆士は訳も無く、畏怖の念に近いモノを感じた。 「………取り敢えず〜」 珠実はその言葉には応えず―――いや、彼の方には見向きすらせずに、つかつかと早紀の方へ歩み寄る。 「コレでも飲んで〜」 そして、舒ろに持っていたコップ―――何か透明な液体が入っている ―――唯の水、では無さそうだが―――を、早紀の口元に宛い。 「え」 そのコップを、 「落ち着いて―――下、さいっ!」 そのまま、 一気に、 持ち上げた。 「*¥@£‡∝ŧ〜〜〜!!!!!??」 早紀は声にならない叫びを上げると、 ピタリと、一瞬だけ動きを止めた後。 ボンッ、という爆発音と共に頭から煙を上げて―――それっきり、ピクリとも動かなくなった。 その間、10秒足らず。 「………………」 その光景の一部始終を、隆士は目を点にして見ていた。 「…あ〜……」 珠実は頬に人差し指を当て、変わらぬ間延びした声で、一応は困ったように言った。 「流石に、紹興酒はちょっとキツ過ぎましたかね〜」 それは、天使の羽を生やした小悪魔の笑顔だった。 13/ 「た、珠実ちゃん…?」 どうして、と。 隆士は呟くように尋ねた。 何が「どうして」なのかは、言った自分でも良く解らない。 どうして、あのタイミングで珠実が現れたのか。 どうして、あんな強引なやり方で早紀を止める必要があったのか。 どうして、珠実は自分を「助けた」のか――― 多分、自分が訊きたいのはその全部だろう。 そして彼女は、その総てに対しての―――或る意味では最も正しい―――回答を、唯一言で返した。 「…こうするしか、無かったんです」 「こうするしかって…」 何もあんなやり方で―――と、隆士は半ば抗議するように言う。 「―――じゃあ」 途端、珠実の目付きが変わった。 「アナタはあんな状態で、早紀ちゃんを止める事が出来たんですか? あの早紀ちゃんを? 非力なアナタが? どうやって? それとも観念して洗いざらい全てを話そうとでも思っていたんですか?白鳥さん!」 689 名前: Who were be It ? [sage] 投稿日: 2005/05/25(水) 00:49:42 ID:FXbbAAmP 「…………」 ―――確かに、彼女の言う通りだ。 あの時、彼女が現れなければ。 下手をすれば―――自分は、楽になりたいという誘惑―――或いは衝動―――に、負けていたかも知れない。 「―――そういう事ですよ。仕方が無い、って言うのは」 気が付くと、珠実の表情は元の笑顔に戻っていた。 唯、先程のそれと違うのは。 その笑顔に、迫力―――と言うかその類のモノが一切感じられず。 代わりに、一種の哀しみ、或いは儚さ、そういった類の色が浮かんでいる事――― 「これは或る意味最悪の場合ですけど―――この先、梢ちゃんが―――勿論他の子も、ですけど―――自分の『秘密』に気が付いてしまう事も、十分有り得ます。 医学的には『そうやって』治す方法もあると聞いていますが―――少なくとも、今は、まだ」 ―――まだ、早い。 珠実は重々しく、そう、告げた。 「…………でも」 一瞬の沈黙の後、隆士が口を開いた。 「でも、どうして―――」 「『どうして珠実ちゃんが』ですか?」 「……………」 再三の沈黙。 それは即ち、図星である事の証明。 「…全く、呆れる程のお人好しですよ、アナタは」 そう言った彼女は、しかし呆れ顔で―――微笑って、いた。 「…理由なんて簡単ですよ」 隆士を真っ直ぐに見据え、彼女は言った。 「梢ちゃんが―――白鳥さんの事を、好きだからです」 「……………え?」 ―――どういう事だろう。 『私が』「梢ちゃんの事を」ならともかく…… …梢チャンガ、僕ノ事ヲ好キ、ダカラ――――? 困惑する隆士の反応を楽しむように、珠美は口元に手を当ててクスクスと笑った。 「……梢ちゃん達―――五人は今、「記憶」という細い糸によって繋がり始めています。 だから、もし、仮に―――白鳥さんが、私がさっきやったような事を梢ちゃんにしたら―――梢ちゃんにも『白鳥さんに"そういう事"をされた』という記憶が飛び火してしまう可能性だって、十分に有り得る」 「…でも、それじゃ」 ―――珠実ちゃんだって、同じじゃないか。 隆士の目が、音無き言葉を投げ掛ける。 珠実は―――或いは、その視線を避けるかのように―――頭上に果てしなく広がる夜空を、虚ろな目で見上げた。 「元々、こういう事は私の役目です。 梢ちゃんに手を出したのは今回が初めてですが―――私は、間違った事をしたとは思っていません。 それに、何より―――梢ちゃんに、アナタを嫌って欲しくないんです」 「…………」 ひろい夜空。 まっくろな夜空。 まっくろだけど、まっくらじゃない。 それは、見渡す限りの星の花が。 ―――星というヒカリの花が、満天に瞬いているから。 「梢ちゃんが幸福になるのなら、私はどんな事だってします。 縱え嫌われても構わない。だから―――」 そして、月という優しい灯が、私達を明るく照らしてくれているから――― 「―――嫌われるのは、私一人でいい」 「…………」 何も、言えなかった。 そんな事、絶対ないよ。 梢ちゃんが、君を嫌う筈が無い――― ―――そう言えたら、どんなに楽だっただろう。 だけど、何も言えなかった。 そんな安っぽい言葉で、自分を正当化する事が許せなかったから。 もう二度と、現実から逃げるような真似だけはしたくなかったから。 そして何より、それは彼女の決心に対する冒涜だと思ったから――― 「―――――………」 それでも彼は、何も言えない自分が情けなかった。 ―――遠く離れていた虫達の声が、一斉に戻って来たような気がした。 14/ 数分間の、少しばかり長い沈黙の後。 「―――それに」 珠実は、唐突に口を開いた。 「え?」 「コレはあくまで推測ですが…早紀ちゃんは、もう少し『眠って』いた方が良いのかも知れません」 「…………え?」 ―――ソレハ、ドウイウ、コトカ。 振り向いた隆士の目に映った珠実は、横たわる早紀の額にそっと手を触れて、静かに微笑んでいた。 その表情は宛ら、子の寝顔を見守る母親の如く優しく、そして切無い――― 「―――以前、魚子ちゃんが『"お姉さん"になっている夢を見る』と言っていましたよね」 「……え、あ、うん」 「私はそれを、『夢』という媒介を通すという形で記憶の部分的な共有が始まっている、と推測した」 「…………」 隆士は一瞬気後れした。 優しさの象徴のようなカオをしていた眼前の少女が、 ―――私は、あなたが憎い。 気付けば「あの時」と同じ表情に、瞬時に変わっていたから。 869 名前: Who were be It ? [sage] 投稿日: 2005/05/28(土) 18:17:03 ID:8FNN8bKo 「恐らく、この推測は十中八九当たっているでしょう。 …そして、仮にそうだとすれば―――それは魚子ちゃんだけでなく、他の皆についても同じ事が言える、と考えられます。 先程も言いましたが―――梢ちゃん達それぞれに、複雑ではないにしろ、『夢』という歴とした記憶の回路が造られようとしているんです」 「…夢」 確かめるように呟いて、 「―――あ」 隆士は、はたと気付いた。 「察しが付きましたか?―――そこで、早紀ちゃんの『夢の話』です。」 「―――じゃあ、もしかして」 「はい。早紀ちゃんの見る『夢』―――アレにも恐らく―――いや間違いなく、 唯の悪夢ではない―――何か、重要な意味が有るんです。 …いえ、もしかすると―――"悪夢"というのも、あくまで私達の見方の範疇に過ぎないのかも知れない」 ―――気付けばまた、虫の声は夜波のように引き静まっていた。 その時の珠実の声が妙にはっきりと通って聞こえたのは、その所為かも知れない。 「早紀ちゃんの話から察するに、夢の中の女の子―――というのは、恐らく梢ちゃんの事でしょう。 …そして此処からは憶測の範疇ですらない、完全に想像の域ですが―――」 珠実は言葉を切り、片手を顎に当てる。 「私が思うに、早紀ちゃんが見たという夢―――アレは言わば―――鬼ゴッコ、です」 「…鬼ゴッコ……?」 隆士は驚いたように珠実を見た。 「ええ。―――多分、この形容が一番近いと思います」 「………」 ―――鬼ゴッコ。 言われてみれば、成程確かにその通りかも知れない。 人の波を隔てた、1対1の鬼ゴッコ。 早紀が鬼で、梢が逃げて。 鬼さんこちら、手の鳴る方へ――― …しかし、「もう一人の自分」との―――恐らく始めてであろう―――コミュニケーションの方法が よりによって鬼ゴッコというのは、何と言うか――― 「早紀ちゃんらしい、よね」 「早紀ちゃんらしい、ですよね」 ―――輪唱、ではなく、殆ど混声二部合唱状態。 二人は目を丸くして顔を合わせ、それから、笑った。 笑って居られるような状況では、恐らく無かっただろうけれど。 それでも二人は、笑わずには居られなかった。 ―――それは、きっと。 赤坂早紀―――蒼葉梢という、一人の―――或いは恋人を―――或いは、一番の親友を―――共有する事の、喜び。 想うカタチは違えど、大切な人には変わらない―――そういう事なのだろう、きっと。 「―――それと、もうひとつ、です」 笑顔を崩さないまま、珠実は言った。 「白鳥さんは、早紀ちゃんの様に同じ夢を何回も見たりしますか?」 隆士はうーん、と考え、 「ほとんど無いかな。もしあっても二日続けてとか、そんな程度だよ」 「…まあ、普通の人はそうでしょう。 仮に見たとしても、それは過去の強い記憶の反芻か予知夢の類か…若しくは非常に強くその夢を望んでいるか、です。 早紀ちゃんの場合は、そのどれとも違う。 早紀ちゃんの話では―――今こそ強く望んでいますけれど―――初めは、それほど 望んでその夢を見ていた訳では無いみたいですしね」 そう言って珠実は、軒上で寝息を立てている「親友」に目を遣った。 髪形こそ気絶したままではあるけれども、 その寝顔だけを見れば、彼女は早紀とも梢とも付かない。 今の彼女は、どちらなのだろう。 今「夢」を見ている彼女は、果たしてどちらなのだろうか――― 「更に言えば、普通の人が見る『同じ夢』というのは、基本的に何から何まで全く同じ内容の夢です。 ところが、早紀ちゃんの夢は違う。 その一回一回で、状況が少しずつ変わる―――早紀ちゃんは、そう言っていました。 ……つまり、同じなんです。早紀ちゃんの夢は。 私達が過ごしている日々が一日毎に違うように、早紀ちゃんの見ている夢も。 私達がこうして毎日を過ごしているように、早紀ちゃんも―――恐らく他の皆も―――表に現れない間の時間を、 夢の中で『過ごして』いるんです。 要するに、早紀ちゃんも、恐らくは魚子ちゃんも棗ちゃんも千百ちゃんも―――もしかすると、梢ちゃんも。 彼女達にとっては―――夢も現も、歴とした『現実世界』なんですよ」 夢。 現実。 隔絶された、ふたつの世界。 行き来の度に切り替わる、記憶のスイッチ。 「―――――」 ―――待てよ。 と言う事は―――もしかして――― 「…じゃあ、梢ちゃん達が"夢"で繋がり始めた、って事は―――」 もしかして――― 「―――恐らくは、夢と現実の境界が、少しずつ無くなりつつあるという事でしょう。 曲がり形にも、梢ちゃんの中で夢と現実が繋がっているとすれば。 …例えば、夢の中の早紀ちゃんが、もし―――」 もしか、して―――…… 「もし…夢の中の梢ちゃんに、早紀ちゃんが追い付いたら―――」 …もしかして――――それは。 「…鬼ゴッコは終わり。 ―――現実の早紀ちゃんや梢ちゃんにも、何か大きな進展が見られると思いますよ」 これ以上無い笑顔で、珠実はそう、云った。 「―――――………」 それが本当に喜ばしい事だったのかは、彼には勿論、珠実にも判らない。 向かう先に在るのは光か闇か―――今の二人には、見当も付かない。 だから、それは決して、手放しで喜べるような事では無かったかも知れない。 だけど、今の彼にとって、それは。 「……ぁ…」 知らず涙を零す程の、この上無い、朗報―――― 「「ホントに!?」」 ―――途端、バタンという物音と共に、 サラウンドスピーカーよろしく二人の前後から、ほぼ同時に、同じ言葉が響いた。 「………………」 二人もまた、申し合わせたように同じタイミングで固まった。 炊事場のドアを勢い良く開けたのは、恵―――と、その後ろに居る灰原。 柱の影から勢い良く出て来たのは、朝美―――と、その後ろに居る沙夜子。 ………………………………。 …何となく、無意味な沈黙の後。 珠実は、はあ、と溜息を吐いて、 「―――全く、盗み聞きとは人が悪いですよ〜?皆さん〜」 「仕方無いでしょ、出るに出られなかったんだから… それより!今日は宴会よ宴会!」 「はあ〜?宴会ならさっk 「えぇい五月蝿い!つべこべ言うなっ!コレが飲まずに居られるかっての! わかったら黙ってついてこい野郎共〜!」 「マ"ー…」 意外に力のある恵にズルズルと引きずられていく珠実を、隆士は苦笑しながら見送る。 と。 「…お兄ちゃん」 声に振り返ると、朝美が―――何か言いたげな顔で―――立っていた。 「なに?」 「…………あの…」 ―――ごめんなさい。 言う事は決まっているのに、言葉が出ない。 「……………」 違う。 ―――だーれに迷惑がかかったって言うのよ? 言葉が出ないのは、 ―――皆過ぎた事を悔やんでも、仕方無い。 それが、真に言うべき言葉では無いからだ。 ―――それでいいんじゃない? ね? 「…………その」 私が、今、本当に言うべき言葉は――― 「……お姉ちゃん、きっと良くなるよね!」 「――――うん、きっとね」 満面の笑顔の朝美に―――隆士もまた、笑顔で応えた。 ―――早紀ちゃん、聞こえてる? 僕の、 珠実ちゃんの、 桃乃さんの、 朝美ちゃんの、 沙夜子さんの、 灰原さんの、 皆の―――鳴滝荘の、声が。 僕達には、頑張れと言う事しか出来ない。 そんな無責任な応援しか、今の僕達には出来ない。 だけど。 僕達は、いつだって此処に居る。 いつだって、君のすぐ傍に居る。 ―――だから、いつでも帰って来て欲しい。 僕達の、鳴滝荘に。 僕達の、まほらばに――― 0'/ 流される。 流される。 漂流者を飲み込まんとせんばかりの人波に。 漂流者を嘲笑うような人波に。 アタシは為す術も無く、流される。 ―――最早、抗う気すら失せた。 漸く理解ったんだ。 キモチだけで、人は何でも出来る訳じゃない。 会いたいという一心だけでは、会いたい人にすら会えないんだって――― …………………。 ……さて、これからどうするか。 このまま、行き着く所まで流されてるってのも、悪く、な―――…? 「…………え?」 アタシは、滅多に疑わない自分の目を、強く疑った。 そりゃあ、当然だろう。 アタシが血眼になって追い掛けていたそいつが今、 人波を掻き分けて、アタシに向かって手を伸ばしているんだから。 「―――――」 いや―――アタシはその事自体よりも、そいつの表情の方が気になった。 世界中の悲哀を集約したような、悲しみに満ちた表情。 今のアタシが、哀れで仕方無いとでも言うような、そんな表情――― 「……………ょ」 やめろよ。 ―――やめろよ、そんなカオ。 お前がしなきゃならないのは、そんなカオじゃない。 お前にしか出来ないカオ。 お前だけに出来る、あの笑顔。 ―――そうだろ? …梢。 「……………っ!」 伸ばした手が、そいつの手に、触れた。 強く握ったその手が、 ―――おかえり。 そう、言っていたような気がしたから。 アタシも手を握り返して、一言だけ呟いた。 「ただいま」 882 名前: 867 [sage] 投稿日: 2005/05/28(土) 18:33:09 ID:8FNN8bKo という訳で、早紀SS 「Who were be It ?」でした ……………やっと終わった…orz やはり枠組みとしての妄想だけから文章を書こうとするとどうしても長くなってしまうものですね 今見ると、クドい説明と無理矢理なまとめとで…何と言うか……orzorz 因みに今更ですが、珠実が持って来た紹興酒は本人の私物という設定です 最後に、こんな無駄に長い話を読んで下さった皆様、ありがとうございました では