---------- ―きおく― ---------- 「あ、ねえ白鳥クン、梢ちゃん知らない?」  玄関の戸を開けるなり、桃乃さんが尋ねてきた。  今日は学校に残って課題を終わらせたせいで、帰るのが1時間遅くなってしまったんだ。  桃乃さんは靴を片足だけ履いた状態。今から出かけるつもりみたいだけど…… 「見ませんでしたけど……ここにはいないんですか?」  聞いてみたけど、桃乃さんは首をかしげるだけだ。 「そうみたいなのよ。2時間前に出て行くのを見たっきりでさ、買い物にしては遅すぎるし……」  確かに、食料の買出しくらいなら1時間もあれば帰ってくるからまだ帰らないのは遅いかもしれないけど、 「ただの散歩かもしれないですよ。夕飯の支度もあるし、今頃急いで帰る途中かも。」 「でもさ、何をしに出たにしろ、梢ちゃんが暗くなるまでに帰ってこなかったことなんて一度もないじゃない?」  それは……そうだな。言われてみると少し変かも……。 「心配だから捜しに行こうと思ってたのよ。白鳥クン、行き先に心当たりはない?」  心当たりと言っても……商店街、もう少し行って本屋とか、そのくらいしか…… 「あ……もしかしたら」 「なになに、心当たりがあるの?」 「そう遠くない所なんですけど、何かあって魚子ちゃんに変わっちゃって、迷子になってるとか……」 「あー、ありえなくはないけど……それだと単純に帰ってこないよりまずいわね。」  うーん、そう言われると自分で言って心配になってきたな…… 「僕も捜しますよ。心配なんで……」 「ありがと、助かるわ……あ!」 「え?」  突然大きな声を出した桃乃さんにつられ、後ろを振り返った。 「あ、梢ちゃん!」  門のところから歩いてくる梢ちゃんがいた。  ほっと安堵の息をつきながら、彼女に近寄る。 「ねえ、梢ちゃん……」 「………………」  でも、まるで僕が見えていないように横を通り過ぎ、さっさと玄関に入ってしまった…… 「お帰り……あ、ちょっと、梢ちゃ……」  桃乃さんのことも目にもくれず、梢ちゃんは早足で管理人室へ入っていった。  少しの間立ち尽くしていたけど、不意に季節に似合わない冷たい風が吹いたので、僕も玄関に入る。 「今のは……もしや、なっちん?」  呆然と管理人室のドアを見つめながら、桃乃さんはそう呟いた。  でも、髪型は確かに梢ちゃんのものだったし、もし棗ちゃんでも一言かけるくらいはしてくれるはずだけどな……  そんなことを考えていると、さっきの冷たい風が玄関に吹き込んできた。 「おわっ、寒ぅ……。とりあえず、中に入らない?」 「……あ、そうですね。僕も部屋にカバンを置いてきます。」  玄関の戸に鍵をかけ、僕と桃乃さんは廊下へ向かった。  結局その日は、梢ちゃんが僕たちの前に顔を出すことはなかった。  彼女の部屋のドアをノックしてみても、部屋の中で何かが動く音すらも聞こえなかった。 「あ、おはよー、お兄ちゃん。」 「おはよう、朝美ちゃん。」  最初に声をかけてくれたのは朝美ちゃん。沙夜子さんも灰原さんも珠美ちゃんもいる。いつもこの時間は寝てるはずの桃乃さんも。  あれ、でも…… 「一人……足りないですね。」 「梢ちゃんなら、玄関にいるですよ〜。」  珠美ちゃんがそう答える。そっか、とりあえず今は梢ちゃんなのか。 「……白鳥さん、本当に梢ちゃんのことが第一ですね〜。」 「え、いや、あの……」 「まぁ、ソイツはそうだろうよ。何てったって……」 「ちょっと、二人とも……」  まったく、朝からもう……  なんて思いながら、何気なく沙夜子さんを見ると、  ごとっ  という音と共に、お茶の入ったコップが倒れてしまった。 「あ……」 「もう、お母さんたらまた!」  ……いつもと変わらない掛け合い。それを見てると、昨日あったことなんて別に何でもないように思えた。 「珠美ちゃん、そろそろ……」  突然、後ろから声がした。 「あ、おはよう、梢ちゃん。」 「白鳥さん。おはようございます。」  ……やっぱり、何でもないんだ。昨日のことは。 「さーさー、早く行くですよ、梢ちゃん〜。」 「うん。それじゃあ、行ってきます!」 「行ってきますです〜♪」  みんなに見送られ、梢ちゃんたちが学校へ行く。 「お母さん、少しでもいいから私がいない間もがんばってね!」 「行ってらっしゃい、朝美……。」  今度は朝美ちゃん。本当にお母さん想いのいい子だなあ。 「ん? 白鳥は急がなくていいのかヨ?」 「今日は休みなんです。」 「そか。んじゃ、俺は部屋に戻るぜィ。」  灰原さんが席を立つ。あっという間に3人になってしまった。  とりあえず、おいしそうな白いご飯を四角パンダのお茶碗に取り分けて、テーブルに置く。  みそ汁をよそうためにお椀を手に取ったところで、桃乃さんが話しかけてきた。 「……結局、昨日のは何だったんだろーね。」 「さあ、としか……。」鍋の中をかき混ぜながらそう答える。 「ちょっと、ソレは薄情ってもんじゃない?」 「そんなつもりはないですけど……昨日のは考え事をしてて僕たちに気付かなかっただけ、とか……」 「いくら考え事してたって、アタシたちに気付かないわけないでしょ。」 「……でも、今日は何もなかったんですから。深く考え込まない方がいいと思いますよ。」 「そうかねぇ……」  今日の具は豆腐とワカメ。お椀を右手にテーブルへ戻る。  ……あれ? 「沙夜子さん、どうしたんです?」  ご飯を食べかけで箸が止まってる。顔をのぞきこんでみると…… 「……寝てる……」  変に器用な眠り方だな……。 「はは……アタシが部屋に連れてくわ。」  桃乃さんはそう言うと、ちょうど空になったばかりの食器を下げて、沙夜子さんをおぶってここから出ていった。  あっという間に1人になった。ちょっとした寂しさのようなものを感じながら、僕は冷蔵庫を開ける。  いつも飲んでいるお気に入りの「多い!お茶」を…… 「……減ってる……」  沙夜子さん……飲むなら飲むで、せめて僕に言ってからにしてください……。  風が、いつの間にか冷たくなってきていた。 「……うぅん……」  ゆっくりと目を開ける。最初に視界に入ってきたのは、雲もまばらな赤い空だった。 「ふあぁ……」  噛み殺せなかったあくびが漏れる。春の陽気に誘われて、眠ってしまっていたみたいだ。  目をこすりながら、腰を上げる。帰ろうかと歩き出した瞬間、公園の中を寒風が吹き抜けた。 「っ……寒ぅ……」  がたがた震えながら、出口を目指す。ちょうど公園を出た途端に、背後から音楽が聞こえてきた。  ふと振り向くと、敷地内に建てられた時計が6時を指している。子供たちに「早く帰りなさい」と促す音楽だった。  ……音楽が止まった。静かだ。平日の夕方だと言うのに、車の一台も通らない。……少し、不気味だ。  木々が揺れ、またあの風が通り過ぎる。そのざわめきが、やけに大きく聞こえた。 「……え……?」  誰もいないと思っていた公園の中に、見覚えのある人影が見えた。 (知りたいですか?)  突然、梢ちゃんの声が頭の中に反響した。  一ヶ月くらい前、彼女が珠美ちゃんと出会った頃の話を聞かせてもらっていた時の言葉が。  まるでその声につられるように、足が公園へ向く。再び敷地の中に立ち入ると、 (……どうしても、知りたい……かも?)  梢ちゃん……いや、今度は棗ちゃんの一言が聞こえた。  ……でも、彼女にこんなことを言われた記憶はない。僕が疑問を口にした時は、棗ちゃんはすぐに答えてくれた。 (じゃあ、教えてあげよっか?)  無邪気な声。魚子ちゃんの屈託のない笑顔が思い浮かぶ。  だけど、やっぱり聞いたことのない言葉だ。  質問を山のように浴びせられることはあっても、今までその逆はなかった。 (私の知りえる範囲で良ければ……)  次に聞こえたのは、打って変わって知的な声。千百合ちゃんだ。  普段はあの調子でも、どこか大人びた雰囲気が彼女の声にはあった。  でも、やっぱり覚えがない。まだたった三回しか会っていないけど、どんな話をしたかはちゃんと覚えている。 (た・だ・し、覚悟は決めといた方がいいぜ?)  この台詞には覚えがある。もうずっと前だけど、これを早紀ちゃんの口から聞いたことは確かに僕の記憶にある。  ふと、ひとつひとつの言葉に繋がりがあるように感じた。数歩歩くたびに聞こえてくる、五人それぞれの台詞が。  残響は人影に近づくほど大きくなり、やがて……  それが誰なのか、はっきりと認めた瞬間に跡形もなく消え失せた。  僕が、とてもよく知っている人。見間違えるはずもなく、風に乗って流れた鈴の音が、確信を強める。  彼女も僕に気付き、そして僕の顔を見て驚いたような表情を浮かべた。 「……白鳥、さん……?」 「梢ちゃん……どうしたの、こんな所で……」  彼女は僕の顔を見つめたまま答えない。 「梢ちゃん?」  二度目の声かけで、梢ちゃんはようやく我に返った。 「あ……ごめんなさい、ぼーっとしちゃって……」 「気にすること、ないよ。それより、こんな所でどうしたの?」  改めて尋ねると、彼女は僕の顔から視線をそらし、朱く燃える空を見上げた。まさに「夕焼け」と呼ぶにふさわしい空だと、思った。 「……気がついたら、ここにいたんです。」 「気がついたら?」  それって……他の人格が現れたってこと……なのかな。  聞いてはいけない疑問が、いくつか心に浮かぶ。その中でも、それほど障りのない質問を選んだ……つもりだった。 「昨日もここにいたの?」  それを聞いた梢ちゃんの顔から、僕はなんとなく答えを察した。だけど、彼女の口から出た答えはもっと意外なものだった。 「え……? 昨日は学校から帰ってきて、その後はずっと鳴滝荘にいたじゃないですか。」  半ば予想はしていたけれど、やっぱり昨日のは梢ちゃん以外の人格だったんだ。  でも……また新たな疑問が湧いてくる。  髪型を見る限り、昨日、僕と桃乃さんの前に現れたのは梢ちゃんに間違いないと思う。  だけど梢ちゃんは「ずっと鳴滝荘にいた」という記憶の補填がなされている。  彼女が嘘をつくような人だとは思えないし、かと言って僕と桃乃さんが二人で勘違いをするわけもない。  ……矛盾でしかない。考えが堂々巡りを続けて、やがて不安へと姿を変えていく。 「……りさん……白鳥さん!」  はっ、と現実に引き戻される。梢ちゃんが心配そうに僕を見つめていた。 「あ……ごめん。僕もちょっとぼーっとしてたよ。」  そう言ってみせると、彼女は安堵の表情を浮かべ、再び空に見入る。 「そろそろ、帰ろう? ほかのみんなも心配してるよ。」  辺りは確実に暗くなり始めている。気温も低くなり、あまり厚着じゃない今日の服装だと風邪を引きそうだ。  ……だけど、彼女はゆっくりと、首を横に振った。 「何か……大切なことを思い出せそうなんです。あと、少しだけ……」  その切なさを秘めた瞳で見つめられた僕に、その頼みを拒む勇気は、なかった……  ――近くのベンチに二人で腰かけてから、二十分ほども経っただろうか。  夕暮れも過ぎ、空は紺色の闇に染まり始めている。  ……梢ちゃんは何も言わない。リボンの鈴が、風を受けて時折ちりりと鳴るだけだ。  ふと、公園の外を見る。……相変わらず、車はおろか人ひとり通らない。僕と、梢ちゃん以外の人間が消えてしまったかのように。 「夢を、見たんです。」  不意に、彼女が呟いた。 「え……夢?」  こくりと、頷く。 「元旦の日に。」 「……初夢?」  もう一度、首を縦に。 「普段は、夢なんてほとんど見ないんです。その時も、夢の内容までは覚えてなかったんですけど……『夢を見た』ことだけは、なぜかはっきりと頭の中に残ってて。」  自然と、相づちを打つ。梢ちゃんは空を見つめながら続けた。 「でも……最近、毎日のように夢を見るんです。それも、いつも同じ夢で……何となく、元旦に見たのと同じ夢だと思ったんです。」  どんな夢なの? なぜだか、声に出すのがはばかられる。 「鳴滝荘の炊事場から、声が聞こえてくるんです。男の人と女の人、二人分の……怒っているように聞こえて。 何だろうと思って行ってみたら、炊事場に……」  そこで、話が途切れた。何か、考え込んでいるように見える。 「……炊事場に?」  今度こそ声に出して、先を促す。 「……私の、母と……男の人……が、いるんです。口論していて、二人とも様子が変で……」  ……少しだけ、彼女は悲しそうな微笑みを浮かべる。 「しばらくして、ひいおじいさんに『向こうで遊ぼう』って声をかけられて。手を引かれながら、開けっ放しのドアを見つめてて……いつも、そこで目が覚めるんです。」 「それは……梢ちゃんの小さい頃の記憶、なのかな……」  彼女はうつむき、呟く。 「私、小さい頃のこと、ほとんど覚えてないんです。十年前、ひいおじいさんが亡くなる少し前くらいからの記憶しか……」 「でも、その夢は……」  今は忘れてしまった、遠い昔の記憶……?  彼女はかすかに頷き、ゆっくりと立ち上がる。 「……この夢から覚めた朝は、決まって誰かに呼ばれているような気がするんです。そんなの、気のせいだってわかってるんですけど……」 「誰かに?」  また、頷く。そして彼女は目を閉じ、両手を胸の前で重ねてみせた。 「こうすると、その人の姿がちょっとだけ見えるんです。……ヘンですよね、私。気のせいだって、わかってるのに……」 「……………」  かすかに吹いた風が、闇の中でも金色に光る鈴を揺らす。 「……今は、赤い瞳の女の子……」  どくん。  梢ちゃんの一言が、頭の中に響き渡った。  ……今、彼女は何て言った?  ――覚悟は、決めといた方がいいぜ?  赤い瞳の持ち主が、不敵に微笑む―― 「……白鳥さん?」  びく、と体が震えた。 「あ……」  この時の僕は、一体どんな表情だったのだろう。気がつくと、梢ちゃんの心配そうな顔が目の前にあった。 「顔色が悪いですよ……?」 「い、いや……何でもないよ。はは……」  ……我ながら、嘘が下手だと思う。 「そ、それより……」  彼女は、気づき始めているのだろうか。  ……いや、ただ単に、梢ちゃんの知り合いに赤い瞳の女の子がいるだけなのかも知れない。  僕は―― (どうしても、知りたい……かも?)  ――そうやって、自分をなだめようと、騙そうとしている―― 「……今は、って?」  静かに、そう尋ねた。禁断の問いではないことを願いながら。  梢ちゃんは再び僕の隣に座り、空を仰ぐ。  日は既にとっぷりと暮れ、闇の中にいくつか星が見て取れる。 「……ちょうど」  中でも一際強い輝きを放つ星を指差し、彼女は続ける。 「あんな、綺麗な金色の瞳の子もいました。」  やわらかなその声は、しかし確実に僕の胸へと突き刺さる。  ……やっぱり、梢ちゃんは――  ――もう、逃げられないんだ。瞬間、僕はそう理解した。 「……梢ちゃん、」  僕の顔を見つめる、彼女。  何を、どう言えばいい?  生半可な言葉なんて到底許されない。  でも、全てを話せば、彼女は―― 「――気のせい、なんかじゃ、ない」  夜空を仰ぎ、かろうじて絞り出した、消え入りそうな声。  はっきりと、言い切りたかった。なのに――  ――なんて弱い人間なんだ、僕は。  結局、怖いだけなんだ。真実を打ち明けるのが。  彼女が現実を受け止められなくなる姿が、見えたから。 (おやおや、何ですか、そのザマは?)  ……あの日の、珠美ちゃんの言葉。  彼女が、僕に言ったこと。もっと強くなってもらわないと困る。そう告げられた夜が蘇る。 (梢ちゃんのこと……よろしく、お願いしますよ?)  ……そう、だ。  約束したんだ。決めたんだ。梢ちゃんを、守るって。  現実を受け止められていないのは梢ちゃんではなく、僕だ。僕は、この責任を放り出しちゃいけないんだ。  今のままじゃ、珠美ちゃんに顔向けなんかできない。 (未来への選択肢は、無限デス)  オカルト研究部の部長に言われた、僕の未来。  ……今なら、わかる。きっと、今が――  ――今こそが、決断の時なんだ―― 「……僕、その人たちのことをとても良く知ってる。」  とにかく、何か言わなくちゃ。咄嗟に出た言葉だった。 「え……でも、白鳥さん……」 「緑の瞳と、紺の瞳の子も……いるん、だよね?」  驚きの表情を隠せずに、彼女は頷く。 「そんな……どうして……?」  きみにとってはごく当然の疑問でも、鳴滝荘の住人にとっては――  そう言い出したくなる気持ちを必死に抑え、彼女の顔を見据える。 「……きみに、謝らなきゃいけないことがあるんだ。」  ただ真っ直ぐ、彼女の目を。逸らしちゃいけない、逸らしたらその瞬間に負けだと、自分に喝を入れながら。 「僕……ずっと、梢ちゃんに黙っていたことがある。黙ったまま、ずっときみを騙し続けてた。」  蒼い瞳に、翳りが浮かぶ。 「騙して、た……?」  うん、と首を縦に振る。彼女のためではあるけれど――  ……自分を騙し続けることにも嫌気が差していたことにようやく気づく。  やっぱり、自己満足でしかないじゃないか。心の中で自嘲気味に呟く。  本当のことを伝えさえしなければ、今までと同じ生活が待ってる。  彼女が望まない真実を聞かせて、全てが崩れ去るより、はるかに安全だし、確実だ。  まだ、後に引くだけの余地は残ってる―― 「……梢ちゃん!」  自分でも予想外だった。突然目の前で、しかも大声で名前を呼ばれ、彼女はびくりと僕を見た。 「は、はい……」  ――今までの、何よりも真摯に。  真剣な眼差しを、自分の一番大切な人へ向ける。  ……何を考えてるんだ、隆士。はなから、逃げ出す選択肢なんて用意してなかったじゃないか。 「大切な話なんだ。僕と梢ちゃんの、これまでとこれからにとって。」  ……頼りない街灯の光だけが、僕たちを照らし続けている―― 「梢ちゃんの知らない人格が、きみの中に眠っているんだ。」  一度話し出すと、もう歯止めは利かなかった。ひとつひとつ言葉を選ぶこともできずに、僕は僕の知る全てを打ち明ける。 「何かショックを受けたりすると、人格が変わっちゃうんだ。目が覚めた時、前の日の出来事をよく覚えてなかったりするのも――」  早紀ちゃん、魚子ちゃん、棗ちゃん、千百合ちゃん。彼女たちのことも、全て。 「でも、他の人格が誰かに迷惑をかけたことはないよ。色んなことがあるけど、全部が楽しいと感じる。」  ……ほんの少しだけ、小さなウソもある。でも、みんな彼女たちが好きだってこと、わかってるから。 「多重人格は、小さい頃の辛い記憶が原因になることが多いとか、僕なりに色々調べたんだ。」  きみが十年前より昔のことを覚えていないのも、それが関係しているのかも――なんて、さすがに言えなかったけど。 「他の人格たちも、梢ちゃんの一部だから。何もかもひっくるめて、それでも僕は――」  ――きみのことが、本当に好きだから――    ……そして、僕は全てを語り終える。  僕も梢ちゃんも、黙ったまま。時間だけが刻々と過ぎていく。  ……胸のつかえは取れた。梢ちゃんのことなのに、梢ちゃん自身が何も知らないままなんて、嫌だ。  でも、梢ちゃんは?  彼女にとって、これは許せる真実だったのか、それともそうではないのか。  うつむいたまま何か考え込んでいる梢ちゃん。  当たり前だ。もし、僕が彼女の立場だったら……僕はきっと、耐えられない。  ――僕は、梢ちゃんのためを思って。  そんなのは、言い訳にもならない。だから、絶対に言いたくない。  ……だけどそれは、やっぱり僕の自己満足でしか―― 「白鳥さん」  ――来た。彼女が、口を開いた。全ての思考が中断する。 「……なに?」  できるだけ、言い方がぶっきらぼうにならないように気をつけながら。 「鳴滝荘の他の方たちも、知っていらっしゃるんですよね?」  その声は、思っていたよりもずっとしっかりしていた。 「うん。」間を空けずに、短く答える。 「ひとつだけ、質問があるんです。」  僕の答えを予想していたかのような速さで――事実、予想できる答えではあるけれど――彼女は尋ねてきた。 「今の白鳥さんのお話に、鳴滝荘のみなさんの名前が一度も出ていないのは……」 「……途中で、他の人の名前を出すつもりはなかったよ。その人に、責任をなすりつけるような気がしたから。」  それきり、会話は途絶える。 「……梢ちゃん」  再び訪れた沈黙に、先に耐え切れなくなったのは僕だった。  重い腰を上げ、街灯から放たれる光の中心に立つ。  ……これだけは、言わせて。彼女には決して聞こえない呟きの後、 「嘘だなんて、思わないで」  静かに、そう願った。 「そんなこと……思っていませんよ。」  背後から優しい声が聞こえるのに、時間はかからなかった。  振り向くと、彼女も立ち上がり、僕を見つめている。  ――それも、微笑みを浮かべて。 「白鳥さんはそんな嘘をつくような人じゃないって、思っていますから。」 「……僕は」  いいんです。そう言いたげに首を振る。 「白鳥さんが話してくれたおかげで、私、不安が吹き飛んじゃいました。何も話してくれないままだったら、私も不安を引きずったままになってました。」 「不安……?」  彼女は、胸の前で両手を重ねる。 「十年前も、クリスマスの時も、それに今も……白鳥さんには、本当に感謝してるんです。」  風が吹く。今度は首筋をなぞる冷たさではなく、全身を包み込むようなやわらかい風。 「さっき……お話の最後に、改めて『好きだ』って言われて、とても嬉しかったです。」 「……うん。その気持ちは、絶対に変わらないよ。」  何のためらいもなく、そう言えた。 「はい……!」  ――僕が望んでいたのは、彼女の、心からの笑顔。  それを見つけた瞬間、胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えて。 「……し、白鳥さん……」  気づけば、涙がこぼれ落ちて――  ――涙をふいて、少しだけ、公園で話をして。  それから、僕たちはこの場所を離れた。 「……白鳥さん。」 「なに? 梢ちゃん。」  僕たちは、ゆっくりと家路を歩く。 「私……少しだけ、思い出したんです。」  二人寄り添い、一歩一歩を確かに踏みしめて。 「さっき話した、夢の続きを……」 「続き?」  彼女は、あたたかい笑顔で話す。 「……ひいおじいさんに連れて行ってもらったんです、あの公園。日が暮れるまで、ずっと私と遊んでくれました……」  きっと――ひいおじいさんは、梢ちゃんの不安そうな顔を見たくなかったんだと思う。 「……梢ちゃんのひいおじいさんは、すごくいい人だったんだね、きっと。」  嬉しそうな笑顔で、彼女は頷く。そして、 「白鳥さんは、ひいおじいさんに似ています。優しいところも、心の強さも。」 「え……そんな、僕は強くなんか――」 「そうやって、謙遜するところも。」  ふふっ、と笑う梢ちゃんにつられて、僕も思わず笑いを漏らす。 「あーーっ!!!」  よく知った声が聞こえる。道の向こうに、暗闇の中でもよく映える明るい緑の髪。 「朝美ちゃん!」  二人で、同時に声を上げる。それがなんだかおかしくて、また笑いが漏れた。 「もー、二人とも笑ってる場合じゃないよ! みんな心配してるんだよ?」 「ごめんね、朝美ちゃん。今、帰る途中だったの。」  あ……そういえば、今は何時くらいなんだろう…… 「ねえ、朝美ちゃん。他のみんなも……」 「みんな二人を捜してるよ。早く帰らないと、珠美お姉ちゃんなんて特に心配してたんだから!」  うわぁ……帰ったら、お仕置きかな…… 「じゃあ、みんなを呼んで、先に帰っててね。私たちもすぐに帰るから。」 「うん、わかった……あ!」  突然声を上げる朝美ちゃん。その顔が、どんどん赤く染まっていく。 「どうしたの、朝美ちゃん?」 「え!? あ、ううん、なんでも、ないよ!」  しどろもどろに答え、 「じ、じゃあ、私みんなを呼んでくるね!」  そう言って、そそくさと走っていってしまった。 「……朝美ちゃん、どうしたんでしょう?」 「うん、途中から様子が……あ。」 「え?」  ……なんとなく、わかったかも。 「白鳥さん?」 「いや、なんでもないよ。」  梢ちゃんは不思議そうに首をかしげている。二人とも無意識だったから、気づかなかっただけなんだ。 「それよりさ、これ以上心配かけちゃうと……」  僕の身が危険なんだよ……なんて、言い出せるわけないけど。 「そうですね。……行きましょうか。」 「うん。」  ――僕たちは、しっかりと、手をつないで。    歩き出す。いつもより少しだけ静かな、歩き慣れた道を―― 「――帰ろう、鳴滝荘へ。」  ――私は、幸せ者ですね。  そっとハンカチを差し出しながら、彼女は呟く。  ――大切な人たちと一緒に暮らせて、私のために泣いてくれる人が隣にいて。  本当に、この世界の誰よりも、幸せです、と――  いつか――逢えるといいな。私の中の、ほかの私に。  夜空に浮かぶ星々を見つめながら彼女は言い、僕はそれにこう答える。  ――信じようよ、逢えるって。信じることに、理由なんていらないんだから。 「……聞こえますか、ひいおじいさん」  ひとり、中庭にそよぐ風を受けながら、僕は空に向かって話しかける。 「あなたのおかげで……梢ちゃんは、こんなに優しい子になりました」  あの日描いた、一枚のデッサンを手に。 「まだ、わからないこともたくさんあるけど」  ……本当に、本当に、みんなと出会えて良かった。 「二人で……いえ、この鳴滝荘のみんなと一緒に」  たとえ体は離れても、心はいつもつながっているから。 「僕たちなりの速さで……生きていきます」  あたたかい、ハルのひざしのようなひととともに。