窓を開けていたら、金色の蛾が飛んできてランプにぶつかった。
 今夜の空に月はない。

 <新月の夜>

 夕食が終わってすぐ部屋に下がった。いつもなら剣の手入れでもしている所だが、今日はなんだかだるかった。
 剣は荷物に凭せ掛けたままで寝台に寝そべる。
 清潔な匂いがする敷布に頭をすりつける。髪紐がひっかかってひきつれたのでほどいてしまう。
「…ふざけるな」
 静かすぎる光のない夜。道の端に街灯はともっているが、月の明りを失うと、それは小さすぎる灯火だった。
 宿の部屋にジェンドは一人だった。
 一人部屋だ。
 路銀などまったく持たず、連れに出させているというのに、同じ部屋で休むことをジェンドは露骨に嫌がった。
 羽音を立てて何度もランプにぶつかる蛾に、苛立って拳で壁を打った。
「うるさい」
  ふっ
 衝撃で火芯が油に浸ってしまったのだろうか、灯りは消えた。
 蛾もどこかへ行ってしまって、窓を閉め、カーテンを閉じる。
 気に障るのは、
 気に障るのは、やけに静かな部屋。
 一人になる前はおちつかなくて、いらいらした他者の気配。
 今は窓と扉を閉ざしてしまうと、誰の息遣いも聞こえないのが妙になる。

 どうして、平気でいられないのか。
 誰かと向き合っている時は一人でいたいと思うのに、独りになると誰もいないのが気に障る。
 誰もいらないのに、誰かに……
 そこまで考えて、またジェンドは壁を殴った。

 誰も今、私に触れるな。

 泣きたいような、笑い出したいような、そんな夜が。
 月が消えるのと同じ周期で訪れるのにいつしか気付いた。

 旅の空の下ではいい。疲れて何も考えずにすむ。
 ただ宿の寝台の上、何もしないでいると思考がどんどん内に向いていくのだ。

 服の上から胸に触れた。にぶく痛んで、顔をしかめる。
 上着を脱ぎ捨てて胸に巻いた布をほどく。きつく巻かれた圧迫から解放されると、細い上半身にふくらみがふたつ現れた。
 重たげに揺れるそれを手でつかんでみる。
「っ」
 指先が中心に触れて、顔を歪める。敏感な一点を避けて、力を入れて握ってみる。
 痛む気がした。 触れている所よりも、もっと奥が。
「う…」
 ドサリと横向きに寝台に倒れこむ。
 髪が、肩を滑って背中を撫でて、敷布に落ちる。
 そのうちのひと房が、肩から前へ落ちて、胸の先をくすぐった。
「んっ」
 びくりと肩が震える。
「・・・・・・」
 自分で、その声に、呆れる。
「……なんで、この程度…」
 呑んでしまった息を吐いて、寝返りをうつ。
 もう一度、髪の房を持ち上げて、手から落としてみる。
 するっ
「…」
 もう一度。
「うんっ…」

 腹が減った、とか。
 つかれたとか眠いとか、腹が立って誰かを殴りたいとか。
 そんな思いにこの感じは似ている。
 ただ違うのは……自分が何を求めているのか、わからない事。

   闇色の肌をした娘は、自分のその一人遊びが一般に何と言われていることなのか、知らない。
 罪悪感もない。羞ずべき事なのかの認識もない。
 ただそうして戯れをくりかえすうちに、自分の身体のどこに触れれば、望んだ快感をつむぎ出せるのかを知っていった。

 脚の間に手を伸ばす。
 ふとももの柔らかい皮膚に手を滑らせると、ぞくりとした感覚がはしる。
「っは…」
 幾度か位置を変えて触れて――ちょっと迷ったあと、下着に手をかけた。
「…げ」
 濡れている。
 身体が熱くなることと、下着が汚れることの因果関係をジェンドは考えたことはなかったが、ただ、汚してしまうのはイヤだった。
 汚れものは後で洗いに行くとして、下着を足から引き抜く。宿の寝間着を頭からかぶる。ワンピース様の服だ。
 ジェンドは裾をちょっと上げ、床にぺたんと座った。
 胡座をかくと、ふともものあたりまで裾をたくし上げる。
 下半身が丸見えになるが、それが見える窓側にはカーテンがかかっているため、誰も見るものはいない。
 手を伸ばし自分のものに触れてみると、べたりと粘性の液体が指を濡らした。
「…あ」
 指が、幾重の襞の中から固いものを探り当てて、じんわりと快感がにじんでくる。
「…っふ」
 ひかえめな声がのどを震わせ、繊指がくっと其処に沈む。
「んんっ…あ…」
 首をひねって寝台の敷布に顔を埋める。喘ぎ声が布にくぐもる。
 指が不慣れにうごく。粘液にすべって、高ぶっていく快感が頂点に達しそうになったとき、
 こんこんこんこんっ
「じぇんどーーーっ」
 無邪気なこどもの声がした。

 硬直して、上げかけた声を殺した。
 後ろめたい思いはなくとも、なんとなく、聞かれてはいけないものだと、思った。
「ジェンドぉ……あのねっ、起きたらね、カイがいなくってね、寝る前はいたのにどうしたのかなって僕思ってね、ベッドの下もタンスの中もゴミ箱の中もおトイレも探したけどいなくっ」
「っ…あ――うるせえっ! そのくらいでびーびー騒ぐんじゃねえッ」
 ガキの面倒くらいちゃんと見とけあのバカ男。
 舌打ちをして、シーツから顔を起こす。
 手を拭って、寝間着のすそを膝まで下ろすと、身体の熱が少し下がった。扉の前に立ち、開けずに中から。
「何だ」
「入ってもイイ? お部屋がまっくらで、独りじゃさみしいから――…」
 むっとして、ジェンドは顔をしかめた。
(夜はいつも寝てやがるくせに…)
 なんだか理不尽な怒りをジェンドは感じた。
 いつもであれば、誰も自分の部屋に入れたりなんかしなかった。
 ただ自分のせいか、相手のせいか。 それとも夜の所為なのか。
  ガチャ
「…好きにしろ」
 ほの明るい廊下から、暗い自分の部屋へ、こどもを招き入れた。

「ジェンド、寝てたの?」
「別に」
「じゃあ、どうして明かりをつけないの?」
 暗闇が怖かったのだろう。十六夜の手には火の灯った燭台がある。それが
星明りさえさえぎったジェンドの部屋を部分的に照らしているのみだ。
「ジェンド暗いの好きなの?」
 燭台を傾けないように上目で訊いた十六夜の問いをジェンドは無視した。
 自室に他人が入ってくるのには思ったほどの違和感はなかった。そのこと自体にジェンドは戸惑った。
「僕もね、明かりをつけないとお星様がキレーに見えるからす」
   ガン。
「……十六夜」
「…へへへー…ぶつかっちゃった」
 目の前につよい光があると目が眩んで、暗い部屋がさらに真っ黒に見えるのだろう。
「明かりが欲しいなら自分で点けろ。…窓の側に」
「いいの?」
「暗いのは怖いんだろ。ガキだからナ」
 明るくていい、今は。夜でなくていい。明るい方がいい。
 自分の姿と、こどもの小ささがこの目に見えていた方がいい。
 なのに。
「ふぅっ…」
 暗闇が怖いはずの少年は、ただひとつの火を吹きけした。

 途端に部屋は闇に呑まれた。
「何やってんだいざよ…」
    びくり、
 闇の中、ほとんど手探りでのばされた十六夜の手が、ジェンドの手に触れた。
「ジェンドが暗いの好きならいーよ。独りじゃないカラさみしくないもん」
 そう言って十六夜はおそらくにっこり微笑んだ。握り込められた手がぶんぶんと元気良く振れる。
 あたたかい手に握り締められた左手が。
「っ」
 急にうしろめたく感じて、ジェンドはその手を引き抜いた。
「ジェンド?」
「触るなっ」
 周囲とともに十六夜の姿までが闇に沈んで、ジェンドはどうしてか狼狽した。
「ジェンド…ふるえてる? 寒いの?」
 寒いわけがない。
 ふれられた手と、触れられていない身体が、むしろ熱い。
「やめろ。さわるな、今…」
「大丈夫だよジェンド」
 白い寝間着は夜目にも比較的はっきり見えるのだろう。こどもは腕を回して抱きついた。
「一緒なら、怖くないよ」
 無防備にひっついてくるこの小さな体は、
ジェンドには、あたたかすぎた。

 やわらかくて小さくて弱くて脆くて、それでもやっぱりあたたかくて。

 小さな躰。このちいさな生き物は。
 この細い首に手をかけて力を入れたら、きっと簡単に。
「…ジェンド?」
「…動くな…」
 低いささやき。
 素直にもかれはぴたりと動きを凍りつかせた。
 かちんとなった身体に腕を回して、体重を預ける。
――ほどなく後ろにポテンとしりもちをついた。
「きゅっ?」
 驚いて十六夜は声をあげる。暗闇の中ジェンドの長く細い腕は解かれない。
離れないでそのまま体重をかけられたから、十六夜はじき床に倒れこんだ。
「ジェ…ジェンド…?」
 なんか変だ。と十六夜は思った。
 こんなにぺったり人にくっつかれたことはない。ジェンドならば尚更だ。
 折り重なって倒れたまま、彼女の手がぺたぺたと何度か頬のあたりに触れた。
 あごを降りて、その指がふと口元にふれて、子供の呼吸が吃驚したように一瞬止まった。
指のはらがやわらかな唇をいったりきたりして、何かをさぐるような動きをみせる。
ほそい指がくすぐったくて、十六夜はつい顔をそむけた。
「く、すぐった、い〜〜」
 いつもと明らかに違う柔らかな触れ方に、別段疑問を感じはしなかった。
 只、やさしくしてくれるのはうれしい、とだけ感じてこどもはくすくすと笑いつづけた。