夢を見た。目の前で死んでいった、ともだち。

  右頬が熱い。ちりちりと、まるで焼けているようなのに、べったりと濡れて。

  そっと手で拭って、その熱いものが赤い色をしているのを確認して。

  それが、かつて友人だったものを覆っている液体と同じものだと確認して。

  焼け付くような感覚は傷口よりもココロを痛めつけて。

  耐えきれないカラダが、臓腑が、激しい拒否反応を示した。


「――― ッッ!」
嘔吐する直前に、現実の世界に戻ってくることができた。
ここは、鉄錆の臭いがする戦場なんかではなく、草の匂いのする清浄な世界。
夢を見るのは、嫌いだ。思い出が現実として何度も何度も、涙も涸れるほど
繰り返されて、そしてそれはどうあっても現実の感覚で、いつまでたっても
夢だと気づけないから。
「な…っさけないぞーカイさんってば」
寝起きの掠れた声が益々情けなさを煽った。
毛布の中が多量の汗でじっとりと嫌な湿り気を帯びているのに気付く。
ため息を吐いて、その場に毛布を広げた。
「せめて宿に泊まってるときにして欲しかったナ、あんな夢」
宿屋のシーツと違い野宿で使うような厚ぼったい毛布は乾きにくいので。

月の位置がかなり高い。空気が澄んでいるのだろうか、
いつもより世界が青白く清浄に見える。

夜風が、冷たい。

――― つめたい、あめ。

――― つめたくなった、ともだち。

ああ、なんだよ、まだ引きずってる? 俺。

夢なのに。

自分なりに、折り合いはつけてるつもりだし。

月明かりが、眩しい。

音のない世界。どこまでも蒼く透き通る、夜空。

じんわりと服に染み込んだ汗を冷やす、夜風。

―――水たまりに突っ伏して、動かなくなったともだち。

ばしゃりと、何かが水を叩く音が聞こえた。

  夢を見ていたのだと思う。気がつくと頬がひんやりと冷たく、濡れていたから。

  内容は覚えていないけれど、きっと覚えていたら辛くなった類のモノ。

  だって、こんなにも胸が・・・・・・苦しい。


「ナッちゃん?」
お供の魔物を呼んでみたけれど、返事はなく、声は冷たい夜風に吸い込まれて、
誰にも聞かれることなく川のせせらぎに霞んで消えた。
ふわり、飛ぶ体。着地点は下草に覆われており、足音のひとつも立たなかった。

「ナッちゃん〜・・・お手洗いじゃナイのネ・・・・・・」
すぐ近くに流れる川沿いに少しばかり歩いてみたけれど、目当ての魔物の姿はない。
「はぁ……」
ぺたん、と地面に腰を下ろし、月明かりを乱反射させる川面に視界を落とす。
夜闇に仄白く浮かび上がる自分の顔に翳りが差しているのが見て取れた。
「ひとりでも、平気……ダヨ」
弱々しい呟きが唇から漏れ出る。

――――― 寂しい?


そんな、考えてはいけないコト。

首を振って、それからまたチラリと水面を見て。

そこに揺れる自らの表情に言いしれぬ不安感をおぼえて。

頭を、勢いよく水に突っ込んだ。

思いのほか大きな、ばしゃりという音が出た。

夢を見たから? こんなに不安なのは。

ナッちゃんがいないから? こんなに寂しいのは。

だめヨ、こんな顔。こんな、普通の女の子みたいな。ワタシは闇の王なんだから。

胸が苦しい。目頭が熱い。嗚咽が漏れ、大きな泡になって口から溢れた。


ふいに、両肩を強く引かれて、水中から新鮮な空気の中に引き戻された。

青い瞳が、驚いたように揺れていた。エストだけでなく、カイも、また。
濡れた髪から水滴がぱたぱたと肩や胸に零れ、染み込まれていく。
魅せられたように、互いに目を離すことも声を出すこともできなかった。

動いたのは、おとこの方が先だった。
「キャッ!」
肩を掴んでいた両手が外され、代わりに少しばかり乱暴なほどに
上半身を抱き寄せられて、おんなの背中はゆるく弧を描いた。

――― 月が、見てる。

そんな気が、した。

自分以外の誰かの体温は、ひどく心地よく、懐かしかった。

何のために、とか、どうして、とか。何も考えられなかった。

ただ、この男とは割と頻繁に顔を合わせるということ、
そういえば何度か顔を見られたけれど結局殺していないいうこと、
黒い髪の幼げな少年が一緒にいたということ、それから

――― そう、このヒトは、キライじゃナイ。

と、いうコト。それらの事実だけが、頭の中をグルグル回っていた。

抱きしめたカラダはあたたかく、やわらかい。それは生きているぬくもりそのものだった。
冷たくて硬い、死人のそれとは全く違う、安心感を与えてくれる感触。

――― そう、やわらかくて、ほのかに甘い香りがして ――― ……甘…い?

ふと我に返ると、抱きしめているのは傷ついた友人ではなくて・・・・・・

「わ…わっ……わッッ!!」

どん!

「ゃん!」

カイの腕が動揺でせわしなく動き、エストを突き放した。いささか、乱暴に。
後ろにひっくり返った彼女は危うく川に落下するところだったが、浮遊するローブが
上手い具合にクッションの代わりを果たし、全身ずぶ濡れにならずに済んだ。

「わっ! スミマセン……」

肩までの長さの金色の髪。何より特徴的な、カラダを覆った自在に動くローブ。
何故すぐに気付かなかったのだろう、今、自分が突き放した相手は……

「あれ? ・・・・・・闇の王サマ?」

エストの首から上は、水に濡れて艶やかに月明かりを反射していた。
髪からまた、ひとしずく水滴が零れて、キラキラと胸元ではじける。
ややよろけ気味に、けれどしっかりと立ち上がり、
呆気にとられたような顔をしているおとこをキッと見据えて叫ぶ。

「いっ…イキナリあんなコトするシツレイ! オマエ…無礼者ッ!」

しばしの沈黙の後、カイが口を開いた。夢から覚めきっていないような口調。

「王サマ……泣いてる?」

ぞっとした。泣いてなんかいない。頬が濡れているのは川に頭を突っ込んだせい。

「泣く、は弱いヤツするコト! 私シナイ!そんなコト!」

「…ちょっと……失礼しますヨ」

端正な顔が、目の前にあった。
右の頬に、暖かく柔らかい感触。続いて、少しヌルリとした熱い感触。

頬に舌を這わされるなんて、初めてだった。


「んっ…ちょっと、しょっぱい、かな。やっぱり泣いてた♪」

茶化すように満面の笑みを浮かべて、カイは囁いた。

胸が、"ぎゅっ"となるのを感じて、エストは首を大きく左右に振った。
"ぎゅっ"と感じたのは、胸だけではなかったし。

自然に、左腕が伸びる。男の頬は白く乾き、以外に滑らかだった。

「泣いてる、は……アナタじゃナイの?」

ぴくっとした微かな動揺の響きが、掌に確かに感じられた。

 あ……なんか、ちょっと……したい、かも。セックス。

頬を撫でられ、あまりにもこのシチュエーションにそぐわない感情がカイの中に芽生える。

細いけれど、ふっくらと柔らかなおんなの指。
その指の根本、男の自分よりもずっと小さな手。
その手と身体をつなぐ、すんなりとした腕。

ローブのせいでまじまじと見つめることは困難だけれど、
確実に、目の前の彼女はとびっきりの美人で。

濡れた金の髪、大きな青い瞳、艶めかしく色づいた唇。
そういったすべてが、自分を誘っているような気がした。

「月が綺麗な夜ですね、闇の王サマ」

頬を撫でていたエストの手を、カイの手がごく自然に捕まえる。
彼女のことだから確実に抵抗すると思ったのに、
小さな手はすんなりと、大きなおとこの手に捕らえられた。

「アナタは、悪い人だ――」

「――男心を、惑わせる」

半ば強引に彼女の身体を引き寄せ、その濡れた金色の髪にカイは口付けた。

 うーん、俺ってば、さすがにこのセリフは狙いすぎだったかナ?

なんて、少しだけ考えて。身体を離して、エストの表情を伺う。
彼女の身を守るローブは頼りなげにゆらゆらと揺れるばかりで、
けれどしっかりと主の顔を覆い隠していた。

思い切って、その布を手でぐいと引き下ろしてみる。

――抵抗は、一瞬だった。

「……ワタシ、悪いオンナ?」

見上げる瞳が、月明かりに不安げに揺れていて。

「いやはやまったく、とんでもナイ悪女ですヨ」

条件反射で極上の笑みを浮かべ、彼は彼女の望んでいるであろう答えを口にした。

この柔らかさに全身包み込まれたら、きっとこの不快感が拭い去れるのではないかと、
カイにはそう思われた。

夜気を含みしんなりと湿った青草の上に、身を横たえているエスト。
これからすることに関して、それがいけないことなのだと、
たったそれだけの理由で彼女は一切の抵抗をしないでいた。

 ソレだけ。

 ホントよ。

 ほっぺたペロってされて、それでムネがきゅうってなったなんて、そんなの気のせい。

そんな、自分への言い訳ばかりを頭に渦巻かせている彼女の虚ろな瞳が、
カイにはただただ艶めかしく映った。

先ほどと同じように、カイの舌が優しくエストの白い頬を這う。

エストの胸が、やはり先ほどのように"ぎゅっ"となった。

それをやはり彼女は、「気のせい」の一言で片づけようとした。