その日も、旅路は平和だった。
 決して楽とは言えない山道を、次の宿場町を目指してかれこれ三日間、野宿だということを除けば。
 だが、季節は春真っ盛り。生命の息吹く季節である。
 山は若々しい新緑も涼しげに、野には名も無き花々が咲き乱れ、けぶったい春の陽光は優しく万物を照らし出している。
 生命の美しさを満喫できる季節にあって、シオンの機嫌もすこぶる良好であった。

 事件は、その日の昼に起こった。
 高く整然と立ち並ぶ杉林で昼食を採った後、珍しくウリックの方から休憩しようと言い出したのだ。
 聞けば、今朝から腹が痛いのだという。
「その割には、食欲が落ちてないようだが。俺様より食ってるし」
「う……だって、お腹が空くんだもん」
「でも、その腹が痛いんだろ?」
「うん」
 シオンは低く唸った。何か妙なモノを食べた訳ではないようだし、顔色も悪くない。ただ、腹が痛いだけだというのだ。
 昼寝したら直るかも、なんだか体がだるいんだ、と言って、ウリックは早々に地面に横になってしまった。
 シオンはシオンで、初めて見たウリックの体調不良に、密かに心配で堪らない。そっとウリックを伺いみれば、既に寝息が漏れていた。

彼女の周囲をせわしなく飛び回るレムも、ウリックの様子に驚いているようだった。
「相当具合悪そうね、寝顔まで苦しそう……」
 何気なく呟いたのだろうレムの独り言が、やけに響いて聞こえた。

 それからどれぐらい経ったのか、心地よく揺らめく木漏れ日に、ついうとうとしてしまったシオンは、迂闊にもウリックが起き出した事
に気付かなかった。気持ちよく眠っていたシオンを叩き起こしたのは、ウリックの盛大な悲鳴であった。
 何が起こったのか。勢い良く飛び起きたシオンは、ウリックの姿を探したが、視界の中に求める姿はない。
「ウリック、アンタ血まみれじゃない!! どうしたのよ!?」
(血まみれ!?)
 間髪居れず、近くの藪の中かから、レムの甲高い叫び声が聞こえてきた。
(魔物に襲われたか……あのバカ!!)
 シオンは杖を引っ掴むと、草の葉に肌が切られるのにも構わず、声が聞こえた藪の中へ突っ込んでいった。

 十数歩もいかないうちに、藪は開け、そこにウリックはいた。
 ぱっと見たところ、ウリックは”血まみれ”ではなかった。彼女に怪我はなく、周囲に魔物の気配や争った形跡もなかった。
 ただ変わったところと言えば、何故だかウリックは裸足で、ズボンは膝上まで捲り上げられている。その剥き出しになった小麦色のふく
らはぎを、幾条かの血の筋が、ゆるゆると伝って流れていた。
「おい……どうした、ウリック?」
「シオン……どうしよう……」
 俯いていたウリックが顔を上げた。その顔は、涙でぐしょぐしょになっている。
「ボク、きっと悪い病気なんだ。きっとこのまま血が止まらなくて、死んじゃうんだ……」
「はぁ? 死ぬ?」
「だって、朝からずっとお腹痛かったもん。今も凄く痛いもん。血が止まらないもん。昼寝から起きたら、もう血が出てたもん。死ぬんだ
、死んじゃうんだ……」
 相変わらず的を得ないウリックの答えに、シオンは呆れていつもの悪態をつこうとした――その瞬間、彼の脳裏に電光石火の勢いで、あ
る単語が浮かんだ。
(いや、こいつに限って、まさか。でも、そういう年頃だしなぁ……)
 シオンは蒼褪めながら、ウリックを見遣った。ウリックは、この世の終わりのような表情で、めそめそと泣いている。
「……おい、その血、どっから出てるんだ?」
 シオンの問いかけに、ウリックは顔を真っ赤にさせて、無言で俯いた。その反応こそが、真実を如実に語っている事など、本人は自覚し
ていないであろうが。

(うわ……ああああぁぁああああ!?)
 声にならない叫びとは、まさにこの事だ。シオンは口をパクパクさせながら、耳まで真っ赤になって後ずさりした。
 決まった、というか、終わった。
 確実に”初潮”だ、間違いない。
 だが、それが分かったところで、何の解決にもならなかった。”男”として旅をしているウリックに、何と言って説明してやればいいのか。
 しかも、ウリックの様子を見る限り、女には”月経”というものがある事を、全く知らないらしい。
(サードの奴、コイツに性教育をしなかったな……って、無口なアイツには無理か。いやいや、俺にだって無理だぞ。絶対に無理だ無理!! どうする……このままじゃあ、どうにもならねえぞ)
 シオンの葛藤など露知らず、ウリックは呑気に泣き続けた。
 レムに僅かな希望を寄せてみるものの、人間の生態には全く無知らしく、狼狽しながら出血部分に回復魔法をかけている。当然のことながら、血が止まることは無かった。
『大変よ、シオン! これ、普通の怪我じゃないわ!!』
 切羽詰まった声で、レムが叫ぶ。当たり前だそんなんで経血が止まる訳がねぇだろ怪我じゃねぇんだ、とシオンは心の中でつっこんだ。
「シオン……ボク、死んじゃうのかな?」
 レムの勘違いな発言で、さらに気を弱くしたウリックが、縋る様にシオンを見つめる。
 その視線に押されるかのように、シオンはさらに半歩下がった。
「そ、そんな訳ねぇだろ!! 今、人を呼んでくるからここにいろ。いいな、絶対にここから動くんじゃねぇぞ!!」
 そう言うや否や、半分パニックを起こして飛び回っているレムを掴んで、シオンは街道に向かって猛烈な勢いで走り出した。
 かくなる上は、他人に頼るしかない。とりあえず女をひっ捕まえてくれば、どうにかしてくれるだろう。

 結局、偶然通りかかった旅医者に助けられ、事は無事解決を得た。
 その後、しばらくウリックとシオンが口を利かないので、全く事情を理解出来ていないレムは、相当な気苦労を強いられたそうな。